最近のテレビを見ていてどこか気になることがある。若者を中心になんだか信じられないくらい農業へのこだわりが濃厚になってきているような気がしてならないからである。
 農業は昔から様々な問題提起がなされてきた。それは日本がどちらかと言うと武家社会やそれ以前から農業を基本として成立してきた国であり、工業化などが盛んになった今でも人々の心の根っこに農村と言う土地が背景にあることを否定することなどできないからである。将来的に日本の農業がどうなっていくのかは分からないけれど、出稼ぎであるとか、工業化と言う言葉そのものの中に、水田を背景とするような日本人のふるさと観が染み付いているような気がしている。

 だからこそ農業人口の減少であるとか、後継者がいない、専業農家では生活ができずに兼業化していくなどが問題視されているのだろう。そして日本の政治もまた、背景には農家と言う票田をバックにした力関係が存在しているからなのかも知れないけれど、農家を保護する施策をきめ細かく配慮しているのは日本が農業国であることが根っこにあるからなのだろう。

 そうした日本の農業が様々な問題を抱えていることは、恐らく江戸時代やそれを更に遡る時代からの日本の持つ宿命でもあったような気がする。だがその農業が最近、若者を中心に人気が出てきているというのである。定年を迎えた高齢者が家庭菜園の延長みたいな気持ちで郊外で野菜作りを始めるなどといった気軽な話ではない。若者が自らの仕事として農業を選んでいると言う話である。

 私はそのこと自体を疑問視したいのではない。自動車の部品を組み立てたり、経理で電卓を叩いたり、居酒屋で料理を運ぶことなどだけが仕事なのではない。農業だって間違いなく日本の食を支える立派な仕事であることになんの異論があろうか。

 にもかかわらず私はそうした農業への高まりを見せている若者の関心に、どこかで「はて?」と思ってしまうのである。それは最近の景気の悪さやそれに伴う前代未聞とも言うべき失業者の増加の現実があるからである。昨年9月にアメリカで発生したリーマンショックとも呼ばれている金融恐慌を発端とした景気の悪化は、アメリカのみならず世界的な規模で不景気をばらまき始めた。それはアメリカに依存している日本のみならずまさに世界中に伝播し、一年以上を経過してなお立ち直りのきっかけさえつかめない状況にある。

 そうした不況はパートタイマーはもとより派遣社員を越えて正社員にいたる雇用そのものの混乱を招き、日本の失業率も5%を超えたまま高止まりの状況にある。政府も対策に躍起だが、そうした雇用不安は失業者の増加を超えて高卒者や大卒者と言った新規採用の若者の求人難、就職難にまで広がってきている。
 派遣切りだの失業者の路上生活者への転落を防止するために民間団体が自主的に食事や宿泊所などを無償提供してきた派遣村が、昨年末に続いて今年もまた冬を前に検討され始めている。

 そんな中での農業の人気である。確かに農業従事者の募集に対して就職を希望する者が増加していることは事実であろう。だが農業従事者になりたいと手を挙げた人たちの真意が、本当に「農業をやりたい」ことにあるのだろうか。「農業をやりたい」との言葉そのものに嘘や偽りはないと思う。でも本当にそうなのだろうか。私には心底農業をやりたいと思っている人が存在しているであろう事実を否定はしないけれど、それよりはむしろ「生活のために就職したい、食うための給料が欲しい」ことのほうに力点があるのではないかと思ってしまうのである。

 確かに路頭に迷うしかないような失業者の増加と先行きの不透明な現実は、食うこともできず寝る所もない途方に暮れた状況そのものである。だとするなら、ここはなんでもかんでも生きるための収入が先決である。自分に合った職業の選択などときれいごとを言っている余裕などない。そうした意味での「職業の選択」とは、まさに「飢えへの選択」としてしか機能していないのが今の日本の状況だからである。

 だからこそ今ある農業への人気は、本音としての農業への人気なのではなく、飢えからの脱出と言う止むを得ない状況から派生した他律的な選択なのではないのだろうかと思うのである。
 農業への人気の高まりと同時に介護関連の仕事への人気も高いと聞いた。農業も含めて、それらはどちらかと言うならこの雇用不安以前の下では人気の乏しい職種ではなかっただろうか。

 3Kと呼ばれた職種が過去にあった。言葉こそ死語になってしまっているかも知れないけれど、「きつい、汚い、危険」の頭文字をとった3Kは、そのまま現代にも通じる就職へのキーワードになっているのではないだろうか。そしてその中には農業も介護も含まれているのではないのだろうか。

 農業は食を支える基本的な職業である。職業に貴賎上下の区別なしなんぞとしたり顔で言おうとは思わない。だが世の若者がこぞって都会から農業へと思いを移している現実の裏には、単なる日本の職業の構造の変化にあるからだけではない。食えないからである。その「食えない」のは単に「もっと豊かに」の意味ばかりではなく、「今食うものがない」との現実があるからなのではないだろうか。なんでもいいのである。住むところと今日明日食う金になるのであれば、それはどんな仕事でもいいとの思いが広がっているからなのではないだろうか。

 そうした若者の姿を批判しようとは思わない。お経の文句じゃないけれど「食う寝るところに住むところ」は、人が生きていくための基本である。もちろん食堂の残飯をあさり、ダンボールにくるまって地下道に寝泊りする方法がないわけではないし、現にそうした気楽さを選ぶ路上生活者の存在を否定はしない。
 だがそうした生活を人間らしい生活とは決して呼べないだろう。だとすれば、そうした環境に追い込まれた若者が、稼げるのならどんな仕事でもいいと考えたところで誰が非難することなどできようか。そして採用の場に訪れた若者が、「農業は食の基本です。生きることの根本的な支えです。私はそうしたことに貢献できる農業が大好きです」と、仮に心にもないことを訴えたところで、どうして批判することなどできようか。

 だから私は、失業者がこんなにも溢れている状況の下で、政府や採用する側が、「農業に心する若者が増加していることは、農業の将来にとって素晴らしいことである」と手放しで賞賛している姿勢が、どこか方向として間違っているのではないかと思えてならないのである。
 そうした今の若者の姿を基本に置いて、例えば農業の将来、例えば介護や福祉の将来を結び付けて日本の今後を模索していくのだとすれば、私たちはきっと大きな誤りを犯してしまうのではないかと思えてならないのである。

 景気が低迷しながらも底を打ったのではないかとの論評も一部で出始めている。相変わらず公共工事は減り続けるらしいから、日本の向かう道は過去とは異なっていくことだろう。自動車の生産台数が上向きになってきており、それに連なる工業製品の出荷も上向いてきていると言う。派遣になるのかそれとも正社員の増加と言う形をとるのか、雇用も今後どんな風に変化していくのか必ずしも分からない。だが、一度サラリーマンを味わった今の失業者たちが切羽詰って農業に救いを求めたとしても、景気の回復によって9時出勤、5時退社みたいな勤労が戻ってきたときに、それでも「私は農業が命です」と言い続けることができるのだろうか。農業と言う冷害や辛い仕事に終日耐えていく職業に、果たして将来を含めた自分の夢を託し続けることができるのだろうか。

 かつて自動車の部品を作りながら見た夢は、もしかしたら都会に住み、洒落たレストランで恋を語り、結婚して日曜日にマイカーで遊園地へ行く。そしてほどほどの年齢でマイホームを持ち、そして定年後は小さな趣味で老後を静かに暮らす、そんな程度の小さなもので形作られていたのではなかっただろうか。そういう人たちが果たしてそうした夢が実現するかも知れない生活環境が景気の回復などで戻ってきたとき、それでもなおそこから離れて、「農業」と言う異質な分野に生涯賭けて立ち向かい続けることが果たしてできるのだろうか。そうして国はそうした若者を頼りにすることを基本に置いて、日本の農業の将来を設計していってもいいのだろうか・・・。



                                     2009.11.7    佐々木利夫


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農業に群がる人々