今年(2009年)の2月、第81回米アカデミー賞(通称オスカー賞)の外国語映画賞に日本映画初のことらしいが映画「おくりびと」が輝いたとの報道があった。「おくりびと」とは死者を棺に納める仕事を請け負う納棺師と呼ばれる人のことである。
 私はまだこの映画を見ていないし、納棺師が葬祭ディレクターのような厚生労働省が認定する民間資格になっているのかどうかもよく分かっていない。そもそも納棺師と言う名称そのものが、どこまで専門職業を示す言葉として定着しているのかどうかについてすらまったく知識がない。

 そんな不確かな知識のままでこんなことを言うのは早とちりの危険を冒すことになるかも知れないけれど、私はどことなくこうした職業の存在そのものにしっくりこないものを感じてしまったのである。
 私はこの映画をまるで見ていないのだから、映画そのものをどうこう言いたいと思っているのではない。ストーリーだってアカデミー賞受賞を伝えるテレビが紹介した程度でしか知らないのだし、家族の前で死者を棺に納める過程で行われるであろう儀式じみた行為の中に、恐らく納棺師の演ずる死者への敬虔さみたいなものが描かれているのではないだろうかと想像する程度の理解でしかない。

 だが、そうした敬虔さみたいな流れの前提に、どうして「納棺師」と呼ばれる特定の役割を持った人物の存在が必要になるのだろうかと思ったのである。納棺師の行う納棺の儀式がどんな風に行われるのか私はまるで知らない。しかし、結局は死者を火葬場へ運ぶために棺へ治めると言うその行為を、死者と関わりのない第三者たる職業人が行うと言うことにしか過ぎないのではないだろうか。たとえその儀式が、荘厳な音楽の中で居ずまいを正した格調高い納棺師の姿と動きにより行われるであろうとしてもである。

 例えば死者が伝染病などに汚染されていて、専門的な知識をもった医師なり看護師などが、法律に基づいた隔離なり汚染の拡大を防ぐための一定の手順が必要だと言うなら、そうした作業を特定の専門家に委ねることに異論はない。いやむしろ必要なことだとすら思っている。
 また、遺体が火災や交通事故などで損傷していて遺族に見せられるような状態ではないとか、納棺する作業が家族や素人には任せられないほど複雑で困難な作業を伴うというのなら、それもまた専門家に委ねることにしたところで、異論をさしはさむ余地などない。

 ところが、この納棺師の仕事と言うのはどうもそうした技術的な作業ではないらしい。それでは納棺師が行う仕事と言うのは何なのだろうか。恐らくは布団やベッドに横たわっている死体を棺と言う小さな箱に移動させるという行為を、一連の「儀式化することによって得られるであろう死者の尊厳の醸成」みたいな様相を親族に見せるための演出にあるのではないだろうか。

 死化粧があるかも知れない。寝巻きから帷子への着替えがあるかも知れない。そのほかにも沐浴をさせたり、口のなかに綿を詰めるなどで死に顔を表情豊かにさせる技術なども含まれているのかも知れない。
 ただそうした遺体の処理を「納棺師」と呼ぶ職業人に委ねるという慣行に、どこか私はしっくり来ないものを感じてしまうのである。

 それは、私にはこうした習慣の中にどこかで生きている者が死を穢れたものとして捉えていることが背景になっているのではないかと思えたからである。人の死は基本的にはその死者の親族に連なるものである。かつては畳の上で医者から告げられたであろう臨終の宣言の多くは、いまやその場所を病院のベッドに移りつつある。
 昔も今も人は死ぬし、死はどんな場合も日常的である。ただ、人は身近な死を経験することがなくなった。そのことの背景には核家族化が進んだことや自宅での死が遠くなったことなどが影響しているのかも知れない。そうした「身近にない死」が、死体をもまた身近から遠ざけてしまっている。

 納棺という行為は、その棺が棺桶と呼ばれる土葬の時代から行われてきた一種の儀式であっただろう。そしてそうした行為は親族なり、もし親族がその死に耐えられないほどの衝撃を受けているのであれば隣近所の人たちが代って行ったのではないだろうか。少なくとも呼び方はともかくとして、その作業を「納棺師」のような第三者たる専門職業人の手に委ねるようなことはなかったと思うのである。

 死はあくまでも抽象的な肉体の不存在や思い出の中にのみあるのだと、人はいつしか思い込むようになってしまった。つまりいつの間にか「死」は「死体」とは無縁のものとして考えられるようになってしまったのではないだろうか。
 「死」は誰に対しても等しく訪れるであろうことを疑う人はいない。だがその死は、いつか死体の伴わない死でしかなくなってしまった。いつしか死は肉体的な死、つまり死体の存在する死から遠く隔絶され、「かつて存在していた人が今はいない」と言う、それだけのものにしか過ぎなくなってしまったのではないだろうか。

 その結果死体は生きている者にとって馴染みのない単なる物体、それももしかしたら自らに訪れることを拒むことからくる嫌悪と穢れを持つ異次元の物体にしか過ぎなくなってきたように思える。そしていつの間にか見ることや触れることに拒否感すら抱くようになってしまったのではないのか。そしてその延長に納棺師の存在があるように私には思える。

 人はついに最も親しい者の死の始末をも見知らぬ他人に委ねるようになったのである。死者と生者との距離は、今やどんどん広がろうとしている。生前から肌に触れることの少なかった者の死は、身近な死から遠い死、無関係な他者の死へと、少なくとも「死体と言う物体」に関しては意識が変貌しようとしている。

 だから逆に納棺の儀式には、より一層の敬虔さが要求されるようになってくるのかも知れない。納棺師の作業の仕方や納棺師が納棺の儀式に抱くであろう感情にどうのこうのを言いたいのではない。仮に納棺師が死者に対して、誠心誠意の尊厳や畏敬を抱いていたとしても、私にはその納棺師の行為の背景に親族のその死体に対する嫌悪の感情とその感情を隠すかのようなセレモニーへの敬虔さの要求(一種の罪滅ぼしの感情、後ろめたさを隔離したいと望む意識)を見てしまうのである。

 なぜなら、「おくりびと」とは本来故人と親しかった者や死者の死をきちんと受け止めるべき人を指すはずであって、決して税理士だとか医者などと言ったような専門職業人の職業を意味する言葉ではない、またあってはならないと私は頑なに思い込んでいるからである。

 そんなことを思っている限り、私はいつまでたってもへそ曲がりのままなのである。



                                     2009.4.9    佐々木利夫


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おくりびとへそ曲がり論