一昔前はいわゆる8ミリカメラでしか家族の映像を残せなかったのが、現在ではビデオカメラ、更には携帯電話でも動画を撮ることができるようになってきて、ほとんどの家庭に映像機器が入り込んできている。そのせいなのだろうが視聴者からテレビ局への投稿という形で家庭での様々な映像が「お宝映像」などと名づけられて私たちの日常に入り込んでくる機会が多くなっている。

 被写体は多くの場合子供かペットが多いようだが、そのことにとやかくは言うまい。我が子やマイペットが可愛いのは当然のことだし、可愛いい我が子は他人が見たって可愛いいに決まっていると親が思ったからといって、それ自体別に異を唱えるほどのものではない。

 そうしたお宝映像のテレビ番組を見ているのかと聞かれると、積極的に見ているつもりはないのだが、最近はなんだかこうした映像が民放のみならずNHKにまで蔓延してきて、意識的に見ないようにしているほどの覚悟まで持ち合わせていないせいか、目に入る機会が自然と多くなってくる。

 そんな中で時々気になる映像がある。それは子供の事故に関わる映像である。普通に遊んでいたり、駆けっこをしたりの映像だから、それはきっと撮影者が親なのだろう。そんな当たり前の映像なんて親か親戚くらいしか撮らないだろうからである。
 しかし、それだけでその映像がいわゆる「お宝映像」になることはない。子供が運動会で走って一等賞をとったところで親は嬉しいかも知れないけれど、その親と無関係なテレビ視聴者にとっては何の興味もない話題だからである。

 こうした映像が「お宝」と称されて特定の時間枠をとって放送されるというのは、その映像に突如としてハプニングが起きるからである。それは多くの場合失敗や過ちなどの不運な出来事であり、それが笑いを誘うことにあることが多い。「他人(ひと)の不幸は蜜の味」と言うけれど、私はそうした蜜の味わいそのものをどうこう言いたいのではない。

 気になるのは子供の事故の映像で、撮影者のカメラのブレることが余りにも少ないことである。駆けっこをしたりブランコで遊んでいる子供の姿があって、それを撮影しているであろう母親か父親がいる。撮影している者の姿は見えないけれど、街頭の防犯カメラの映像ではないのだから、撮影者が親であろうことくらいすぐに分かる。
 突然、何かにつまづくか、ブランコから落ちるか、近くに犬が近寄ってくるなどで子供が倒れたり水に落ちるなどの事件が起きる。そしてその子供が泣き出す・・・。そうした姿がおかしいと無関係な第三者は嬉しがってテレビを見る。

 その時である。こうした非常事態にもかかわらずカメラは一瞬たりとも揺らぐことも、たじろぐこともないのである。泣いている子供の姿を、カメラは冷静に、時にズームアップまでして撮り続けるのである。もちろん、「お宝映像」として採用され放映されているのだから、なにがしかの報酬が出たであろうことは想像に難くないし、そうした映像を投稿したこと自体に何らかの報酬を期待する気持ちがあったことも否めないだろう。だからと言ってそのこと自体を特に非難しようとは思わない。一定の時間枠をとって視聴率を稼げると踏んだテレビ局の思惑と、貴重か愉快かはともかくとして自らが撮影したオンリーワンの映像に価値があると思った親とに利害の一致が認められたとしても、それに乗っかったことにとやかく言いたいとも思わない。

 ただ、揺らぎのない映像、ブレのない映像というのはどこか変である。被写体は恐らく我が子である。その子供が事故に遭い泣いているのである。恐らく命にかかわるような事故ではないとの判断が撮影者にあったであろうことが理解できないではない。子供が泣いているという事実は逆に言えば泣けるくらいの大丈夫さが子供にあるということでもあろうからである。
 だがそうした冷静さ自体がどこか気になるのである。事故で子供が倒れたのである。それは事故なのだから、あらかじめ仕組まれたり計画されたりしたものではなく、不意打ちで目の前に展開したものだろう。だとすれば結果を予想する前、つまり事故発生と同時に親は手が、そして体が子供へ向かって動くのではないかと思うのである。

 そしてそうした動きは即座に手にしているカメラに伝わるはずである。手から離れたカメラに、泣いてる子供の姿など映るはずなどないはずである。カメラを放り出して我が子に駆け寄ってこその親ではないのか、草むらに転がったカメラが空を映したままになっていることこそが、親としての自然な姿なのではないだろうか。
 もしかしたら親は少しタイミングをずらして、お宝となるべき決定的シーンを撮影した後に子供に駆け寄ったのかも知れない。恐らくそうだろう。だが、そうした冷静な判断を咄嗟の場合にしてしまうこと自体に、どこか当たり前の「親」と「子」とは隔絶された「撮影者」と「被写体」の関係を見てしまうのである。

 「咄嗟」と「冷静」の差は恐らく小さいものだろう。それでもこの差は親と子にとって決定的な違いを示しているのではないか、場合によっては断絶と呼べるほどにも大きな差ではないのか・・・、そんな思いが次第に強くなってくるのである。だから私は「お宝映像」と称する番組を見せられるたびにどこか腹立たしくなってくるのである。

 最近は、子育てに悩む母親が多くなっているとか、幼児虐待が増加していると言われている。親子関係は出産や一緒に生活することで自然発生的に育まれていくのだと私は思いこんでいたのだが、そんな思いは今では遠くなってしまったのだろうか。
 人間も含めてすべての種で、子に対する親の位置づけては論証なしに「本能」に支配されているかのように信じていたのだけれど、現代における親子関係はもしかしたら「理性」だとか「数値化された情緒」みたいなものへと変節してしまっているのだろうか。

 そう言えば今朝のNHKテレビ(5.15、午前8.30、生活ホットモーニング)は、最近の子供の「ごっこ遊び」についてこんな風に話していた。
 「ままごと遊びは子供の遊びの定番で、昔は『お母さん役』が一番人気だったけれど最近はママ役の人気がまるでない。それは母親の役目は大変なのだとの思いが子供にも伝わっているからではないか。父親もいつも不在だからどう演じていいか分からずこれも人気がない。一番人気はいつも大切にされ、可愛がられるペットだ。」こんな内容だった。

 「親の子に対する本能」からの乖離は、そのまま「子の親に対する無条件な信頼」にも同じように呼応しているのだろうか。



                                     2009.5.15    佐々木利夫


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