「女にとっての料理は義務(苦役)だが、男にとって料理は趣味(快楽)だといわれる」(石津謙介、「変えない」生き方、P143)

 こうした意見の背景には、「男の料理は金に糸目をつけない」があるのかも知れない。好みの材料や香辛料を気ままに集めて作る料理なら、作り方にも当然左右されるだろうけれど恐らく旨い料理ができることだろう。ただしそうした場合の男の料理には、恐らくその料理を喜んで食べてくれるであろう妻の姿や仲間や隣近所たる客の存在が不可欠なのではないかとふと思える。つまりそうした賞賛されるような男の料理の存在する場所には、例えば妻に先立たれ一人ぽつねんと晩飯を作りそして食卓に向かっている老いたやもめの姿は予定されていないような気がしてならない。

 私も事務所ではほとんど一人である。したがって昼飯はいつも自作になる。同じように事務所を開いている仲間には、退職してかれこれ11年、昼飯なんぞ自分で作ったことはないと豪語している者もいる。つまりは外食に頼っているという意味であり、決して背景に愛妻弁当や昼食抜きダイエットが存在しているわけではない。

 ところでこうして毎日のように昼飯を作っていると、どうもそれが「男の料理」だと呼ぶことなどできないような気持ちになってくる。昼飯と言えども包丁とまな板を使わないことはない。たとえ時にインスタントラーメンをすするだけり手抜きであったとしても、キャベツを刻んで加えたり卵を割り入れるくらいの作業は伴うからである。

 だがそうした作業を料理と呼んでいいのだろうか。もちろん事務所の冷蔵庫には、キャベツ以外にも馬鈴薯やさつまいもや乾麺、卵や豆腐や塩わかめなどのほか様々な調味料もそれなり揃っている。そうした材料を駆使して昼飯作成に取りかかることになるのだが、ダイエットに心がけていることもあり、せいぜいが単品プラス目玉焼き程度の作品でしかない。だがそうした作業を料理と言えるかと問われると、どうも素直に料理を作っていますとは言いにくいような気がする。

 つまり料理とは「食べてくれる他者」の存在が前提になっているのではないだろうかとの思いである。自分で作って自分で食べる、それも自分だけで食べる、そうした行動は料理なのではなく単なる「調理」に過ぎないのかも知れないと、馬鈴薯の皮を剥きながら男は一人そんなことを考えてしまったのである。

 男は仕事で女は家庭、なんぞと昔ながらの習慣を持ち出そうとは思わない。ただ男女間に役割分担の違いのあったことは事実であるし、そして女性には出産と言う女性特有の事情のあることも性差の背景として理解しておく必要があるだろう。
 だからと言って女を家事の専門家として位置づけようとは思わないけれど、それでも最近の「婚活」などと言う言葉の氾濫を見ているとなんだが世の中が、と言うよりは女性自身が結婚に対して昔流行した「永久就職」みたいな幻想を自ら望んでいるような感触すら感じてしまう。

 さて男の料理であるが、私にも昼飯以外に料理の機会が全くないわけではない。この事務所は私ひとりの仕事場ではあるけれど、同時に書斎兼「秘密の基地」でもある。琴似地区という場末ながら繁華街のはずれにあるこの事務所は、交通の便も良いことから月に数回は事務所から居酒屋にも変身して仲間との飲み会の会場にもなる。酔いどれ同士の身勝手な屁理屈合戦の場であることに違いはないにしても、空酒では味気ないし、干物のつまみも寂しいことからついつい私の手料理の出番となる。

 むかし、男女差別であるとの批判を受けて打ち切りになったテレビコマーシャルに、「私作る人、あなた食べる人」と言うのがあった。その批判の是非はともかく、料理にとって作る人と食べる人とは多くの場合別人であることが一般的であろう。ところで事務所での飲み会において、来客が食べるだけで私が作るだけと言うのはいかにも不公平である。せいぜい2〜3人の仲間の集まりなのだから、私が作る役割に回ってしまうと私だけが仲間はずれになってしまうというものである。そうした不公平をなくするために発見したのが、仲間と一緒に「作りながら食べる」という手法である。

 これなら互いに飲み交わしながら食べるのも同時進行が可能と言うものである。缶ビールは冷蔵庫、日本酒が書類入れ兼用の鉄庫の中であることは客ともども承知の上だから、グラスが空になったら自分で取に行けばいいだけのことである。これで客も主人も対等に酒と料理に付き合えるというものである。もちろん会費は千円と決めてあるし、後片付けも参加者全員での共同責任である。
 こうした要請に基づく我が居酒屋の料理は、必然的に「鍋」が多くなる。まあ、作り置きしておくという方法もないではないが、そうした場合に致命的なのが作った料理が食べるときには冷めてしまうということである。その点、鍋料理は食卓の上に熱源さえあれば作り立てを各人が自在に口にすることができるので重宝である。

 ただ問題がないわけではない。熱源こそは鍋の形をしたホットプレートとカセットガスコンロが事務所に常備してあるのでそのいずれかを使えばいいとしても、料理たる本日のメニューの決定、材料の買出し、そしてその下ごしらえなどが全部私の肩にかかってくることである。
 そうした準備、つまりスーパーでの材料の買い物や事務所までの運搬、皮むきや魚の解剖、更にはテーブルへのグラスや盛り皿の用意など面倒といえば面倒である。だが出された料理に客は不満など言えないので、メニューは私の一存で決めることができるのは快挙である。それに調理方法や味付けもまた私の独断に客は逆らえないこと、それに私自身の料理の知識が増えこれからの老後の自立に多少とも役立つだろうことなどの更なる利点もある。なんたって料理すること自体に億劫でなくなることは大事な利点の一つでもある。

 そんなこんなで居酒屋開店以来10数年、レパートリーもそれなり広がってきて季節に合わせたメニューもいくつか用意してある。時には私の決定したメニューに逆らえないという客の弱点を利用して、インターネットで見つけたり、スーパーの売場に置いてあるレシピなどを活用して新しい料理にチャレンジすることもできる。もちろん出来上がった料理のすべてが舌鼓を打つほど旨いとは限らないけれど、何と言っても千円会費の味に(内心はともかく)クレームをつけるような無粋な客など一人もいない。しかも私にしたところで、それほど魅力のない仕上がりだった場合はレパートリーとしての記憶から外してしまえばいいだけのことである。

 まあ料理と言ったところで酒飲みながらの飲んだくれ談義である。口が動いていて、何でもいいからその中に放り込んでおけばとりあえず用の足りる事務所兼用の居酒屋だから、客も主人も料理のタイトルくらいは覚えていても細かな味わいなどにまで気を回すことなどない。口が空っぽなら仕事の話や最近の政治のお粗末さなどがその代わりをしてくれるその程度の料理であれば足りる。この居酒屋は二時間弱で切り上げ二次会は近くの美人ママのスナックで下手なカラオケになることも多く、口直しは始めから用意してあるようなものである。

 この程度のことで男の料理などとは口幅ったいかも知れないけれど、それでも一人の事務所で男は自分の昼飯と仲間との居酒屋料理作りにせっせと挑戦し続けているのである。そしてそのことを趣味だとか快楽だとまでは思っていないけれど、実のところそんな自分がそれほど嫌いではない。



                                     2009.8.27    佐々木利夫


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男の料理