黒マグロの漁獲が世界的な規模で規制され、お先棒担ぎのテレビの中には早くも寿司屋でトロはもう食べられなくなるなとど騒ぎ出す始末である。こうした漁獲への規制はマグロに限るものではない。私は詳しくは知らないけれど、恐らく我国では我々が食卓に載せる魚のほとんど全部に何らかの形での規制がかかっているのではないだろうか。

 その多くは漁業権と言う名の下に特定の漁業者以外の者による捕獲の限定であったり、禁漁期間を設けて漁業者自身による捕獲を禁止させるなどの方法が多い。もちろんその他に栽培漁業の名の下に養殖も盛んに行われていることを知らないではないし、その養殖も国内のみならず海外にまで普及していることはなんとか減少を歯止めまたは増加に転じさせようと考えているのであろう。

 それらのことごとくが、いわゆる「資源保護」の名の下の管理であることに私はどこかすんなりこないものを感じてしまうのである。私は資源保護と言う語に偽りがあるとは思わない。だが資源保護という名がなんとも美しい響きを持っていること、そのことにどこか胡乱なものを感じてしまうのである。資源保護とは一体何を意味するのだろうか。そんなに美しいものなのだろうか。私にはそれは生物の尊厳を示すものでも、命の保護に係わることでも、絶滅危惧種の保護でもないように思える。資源とは単に「人間の食料を確保する」ことにしか過ぎないのではないだろうか。だからと言ってそのことを非難はすまい。人間を生物や生命の頂点だと奢るつもりはないけれど、食べることと命とが直接に結びついていることは人も含めた生物共通の真理でもあるからである。

 だが漁獲への規制とは、私には「人間が魚を食っちまうこと」ことに対する規制ではないかと思うのである。魚も生物の持つ当然の使命として、自らの繁殖を絶対的な命題として命そのものの中に持っている。種を保存していくことは、生命が生命であることの本質であると理解してもいいことだろう。
 人間の目指す資源保護とは、生物が自らを繁殖させていく速度を遥かに超えて人間がその生物を食ってしまうことを意味しているのではないか。魚同士が食い合うこともあるだろう。知床のヒグマが鮭を捕獲するように獣や鳥が魚を捕獲する術を覚えた種も多いことだろう。それでも種は食物連鎖の中で互いの繁栄を確保し維持してきた。

 こうしたバランスを崩したのは人間である。人間がそのバランスを食うことで破壊してしまったのである。規制と言うのは見かけ上は収穫や捕獲を制限することではあるけれど、その内実は食うことを禁止することである。規制しなければ多様な生物は人に食われることで種としての自らを維持していけないほどまでに追い込まれることになったのである。人は食うことで他の種を絶滅にまで追い込むようになってしまったのである。

 人の食欲とは、かくも暴走している。しかも、しかもである。人の食欲は、なんと他者の飢餓を許容しつつ並存しているのである。満腹や飽食が日常化し、食べられる食品の大量廃棄などが当たり前になっている一方で、人類は飢えているのである。飢えて死んでいっている現実があちこちに存在しているのである。肥満は今や先進国の当たり前の状況になった。グルメは誰もが望むもっとも身近な欲望の充足手段となった。
 言葉として「もったいない」は存在しているけれど、だれもそのことを我が身の問題としては考えなくなった。消費は美徳であり、大量廃棄はそのまま文明の熟成を表す指標にすらなっている。

 生きることと食べることは恐らく種の発生と離れがたく結びついているものであろう。それは恐らく現代でも切り離せない法則として、生物である人類にも引き継がれている宿命だろう。「食べなければ死ぬ」、そんな単純な法則を残したまま、人はいつか「生きるために食べる」ことを忘れてしまった。食欲の暴走は、更なる食に係わる新たな欲望の増殖へと人を否応なく駆り立て、いつか「満足する心」をどこかへと置き去りにしてしまった。置き忘れたまま、暴走だけを続けるようになった。

 どんな番組だったか忘れてしまったが、つい先日のNHKテレビ(12月8日)での一言である。「一生懸命働けば食べるのには困らない」。こんなことは少し前までは私たちにとって当たり前のことだったような気がする。「お天道様とおまんまはついて回る」ことだって、少なくとも私たちはそれを何の疑念もなく信じてきたはずである。
 だが最近の世界的な不景気による失業者や就職難民の増加は、いつ間にか漫画喫茶やネットカフエでの寝泊りを超えて路上生活者へのはみ出しへと人を追いやるまでになってきている。年末を控えたそんなどうしょうもない状況に対して、「今年のデパートのおせち料理は一人前一万円前後のものに人気が集まっています」などのにこやかな報道は、今の世の中どこかで人の生きることそのものにミスマッチが起きていることを如実に示しているような気がしてならない。

 そしてそれはおせち料理とのミスマッチに止まらない。政府が最近行ったと言う世論調査の結果である。「必要な食料が経済的に買えなかったことがありますか」の質問に対し、「よくある」と答えた人は2.5%もいたのだそうである。そして更に「ときどきある」、「稀にある」の回答をした人の数が13.1%だったそうだから、実に15.6%、約6人に1人もの人が今まさに「生きるために食う」と言う、「生物としての人」の命題と真正面から対決しているのである(12.25、NHKテレビ、朝8時のニュース)。

 豊かさを求めることは人の持つ業なのかも知れない。いやいやそれ以上にもしかしたら食欲とは原爆にも匹敵するような人類の罪深い発明だったのかも知れない。人の欲望の際限のなさは食欲をも飲み込んで増殖し続けている。あたかもそれは亡霊のように生物としての満足さを超え、「もっと、もっと」と叫び続けている。しかもそれは他者の飢えに鈍感となった己だけの「もっと・・・」でしかない。「足るを知る」ことを忘れてしまった現代人に、果たして未来はどんなシナリオを示してくれるのだろうか。今年も間もなく年の瀬である。



                                     2009.12.23    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



食欲の暴走