世の中のことが少しずつ、しかもへそ曲がり風に感じてくるのは、我が身の老いのなさしめるところかも知れないけれど、ここ数日の新聞の読者投稿に気になる投書が立て続けに載っていた。

 @ 役所の人件費より公共事業削れ(朝日、6.20)

 「・・・しかし、給与の削減に限界がある以上、政治的な意味合いはあるにしても財政的にさほど効果的な策ではない。なぜなら、たとえ10億円の人件費を削減したとしても、その程度の削減は無駄な大型公共事業一つを行うことで軽く帳消しにされてしまうからだ」(52歳、地方公務員

 計算式としてはよく分かる。どっちからひねり出そうと10億円は10億円だからである。だが論者の意見には、「給与の削減には限界がある」ことと「大型公共事業費の無駄」がパラレルなものとして抜きがたく染み付いている。そして論者は無意識に給与を貰っている側が正義だと思い込んでいる。

 それは我が身が一番可愛いのは世の常だから、自分の給料が減ることと道路一本作らないことを比べたときに、どちらの立場に味方するかの気持ちが分からないではない。
 しかし、彼が言いたいのは、そして言っていることの本当の狙いは、「無駄の排除」にあるはずである。だからその理屈を通すなら、AかBかで済む話ではないはずである。どうして人件費と公共事業との二者択一のテーマになってしまうのだろうか。両方の支出の中にともに無駄が含まれているのなら、それは仮に歳入が潤沢にあったとしても削減すべきものは削減すべきである。もしどうしても財源が不足し、それでもなお必要な歳出だというのなら、より削減にふさわしいところから切り込んでいくべきである。

 それは決して人件費が公共投資かという二者択一の問題ではないはずである。「無駄な大型公共事業」があるとして、それをきちんと検証するのは当然のことではあるけれど、そこから得られた無駄の発見が「人件費の正当性」を保証するものでは決してないことをこの地方公務員はまるで気づこうとしていない。
 言ってみれば人件費とは自分の給料のことでもあるのだから、減らされてはかなわいと思うのは無駄の判断以前の問題かも知れないけれど、そうした無駄の判断をしないままに他に転嫁してしまおうとする意識は公に発表するには余りにも身勝手が過ぎるような気がしてならない。ことは「AかBか」ではなく、「AもBも」なのだから・・・。

 A ペットを「買う」に疑問持っては(朝日、6.20)

 「・・・長男が幼稚園のころ『ねえママ、ペットって、いのちのある生き物だよね。なのになぜ、命が売られているの?』とペットショップの前で私に聞いたことがある。・・・私は『いのち』が売買されることを・・・なぜ気づかずにいたのかと・・・人という生き物として、恥ずかしさを感じた・・・。・・・その後、長男がほしがってわが家に来た犬は、捨て犬として処分される寸前の犬だった。・・・ペットを買う前に、『買う』という行為に疑問をもってみることも、きっと必要なのではないかと、私は思う」(39歳、主婦)

 我が子が感じてくれた「いのち」に対して、母親として感動している気持ちが伝わらないと言うのではない。彼女としてはむしろ誇らしささえ感じていることだろう。
 しかし・・・、と私はここにもへそを曲げたくなる。露天で金魚すくいに歓声を上げ、みどり亀を釣る。生き物の売買に「いのちの売買」を重ねることに気づかなかったことがそんなに「恥ずかしいこと」で、捨て犬として処分される寸前の犬を拾うか貰うかしたことはその命を救ったのだから「恥ずかしくないこと」だと彼女は本当に思っているのだろうか。

 生き物の売買を「恥ずかしいこと」、それも「人として恥ずかしい」と感じるほどの思いを、命の意味を理解した上での行為だと認めるなら、恐らくこの世の中そのものが成立しないことになるのではないか。この主婦の言う「いのち」をどの範囲まで、つまり犬、猫などのペットに限定するのか、それとももっと大きく「動物」の範囲まで広げるのか、更には植物なども含めた「生きているもの」のすべてに広げてもいいのかについて彼女は恐らく考えていないようである。皮肉っぽく言うなら、「可愛いいと思わず声を出すことのできるくらいの小動物の命」程度の軽いものなのかも知れない。

 私たちが毎日の生活の中で「いのち」を食べていることの意味をこの主婦は一つも感じようとはしていない。市場やスーパーで肉を買い、魚を買い、キャベツを買う。ついでに食卓に飾るチューリップを買う。なんなら加工された惣菜も刺身やその他売られている商品のほとんどは生物の加工品である。
 「それは既に死んでいるものを買うのだから」と言うのなら、それは自らがその生物の殺傷に関与していないことを意味しているに過ぎないのであって、いのちを食べていることには何の違いもないはずである。また飲食店では刺身の生き造りやしろうおの踊り食いの人気が高く、生きたまま輸送される魚やイカが新鮮だとして高価で取引される。

 様々な殺虫剤を何気なく使う、植木を買う、オバマ大統領が対談中に顔の周りを飛んでいるハエを手で叩き落した映像を見る、道を歩きながら気にもせずに蟻を踏み潰してしまうなどなど、私たちは知らず知らずに多くの命とかかわっており、無意識にもせよ死と離れがたい生活をしている。それは単に「物の売買」の範囲にだけ止まるものではない。
 彼女の言い分は、それが我が子の発言だったから特に感激が大きかったのかも知れないけれど、命をそんなにあっさりと分かったように感じるのは、どこかに命に対する驕りがあるような気がしてならないのである。

 B 私立進学はぜいたくか(朝日、6.21)

 「・・・現在の定員では希望者すべてが国公立の大学、高校に行くことはできない。私立を受験できないことは、進学の機会そのものを失うことにもつながる」(中村真理子)

 これは父を亡くしてあしなが育英会の支援で私大に通う女子学生が、「私がいるからお金がかかって、母を苦しませる」と涙ながらに語ったことを書いた記事に対し、「片親なのに私大に行くな」とインターネットへ書き込みがあったことに対する投稿者の意見である。

 確かに「金がなければ大学に行くな」、しかも「片親ならなおさら」みたいな意見は冷たいと思うかも知れない。だがこの投書者は余りにも「教育そして進学」を絶対視、神聖視してしまっているような気がしてならない。私には「金がなくて私立大学に行けないこと」がそのまま「進学の機会そのものを失う」ことにつながり、世論調査で得られた「(大学進学は)与えられた方が望ましいが家の事情で与えられなくても仕方がない」との回答が過半数を占めたことを「日本人は冷たい」(人口問題研究所室長談、投稿者の引用より)と判断する意見にはどうしても賛成できないのである。

 大学進学、それも私立も含めた進学が人間にとっての絶対無比、金科玉条の妨げてはならない選択であるとするなら、こうした意見の分からないではない。だが「金のないこと」と希望する選択の道が制限されることは、少なくとも資本主義社会、いやいや政治や経済形態の違いなんぞにかかわらない、人間社会のごく当たり前の仕組みになっているのではないだろうか。

 しかもそれは「金」だけに限るものではないだろう。権力や能力や努力や体力などなど、優れた力を持つ者が他者よりも優位に立てることは歴史が明らかに証明していることではなかったか。投稿者の意見は、恐らく国公立の受験に失敗し入学できなかった者の私立による救済、そして学費の補助、更にはその補助のための国による支援などを言いたいのであろう。
 だが例えば「弱肉強食」や「適者生存」と言った生物が進化してきた過程そのものだって、「力の優位」を事実として示してきたことの伝承でなかっただろうか。

 教育の分野だけを取り出して、「希望者(それがどんな意図に基づく希望であるかにかかわりなく)のすべてに私立も含めた高校・大学進学を叶えさせるべきだ」との理屈は、希望さえすればたとえ能力が不足していても無試験で国や奨学金制度による援助を認めるべきだと言っているのと同義であるような気がしてならない。
 もしそうしてまで高校、大学へ行けないことが教育の機会を奪うことになると言うのなら、食べたい人に好きなように食べさせること、住みたい人には望むような住宅を与えること、お金の欲しい人に望む限りの満足を与えることもまた、生存権の保証として「しなければならいこと」になるのではないだろうか。

 私は「教育の機会の保証」そのものを問題視しているわけではない。ただそうした保証にはどこかで限界があっていいのではないかと思っているのである。「希望するならどこまでも満足させよう」は本当に正しい選択になるのだろうか、人はどこかで「我慢」することを覚えていかなければならないのではないだろうか、そんなことを私は思っているのである。

 大学全入時代と言われる現代である。私立大学は学生獲得のために無試験、推薦を多発している。私自身高校と大学の意味合いを多少混同しているような気のしないでもないけれど、進学とは学ぶために行くのである。「希望したから行ける」のではない。苦学だとか蛍雪なんぞと言う言葉は、既に死語だとは理解しているつもりではあるけれど、それでもどこかに大学に行きたかったとの思いが残っている老人にとって、大学をそんな軽いものにしてしまってはいけないと心密かに思い込んでいるのである。



                                     2009.7.3    佐々木利夫


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