世の中、政治なども含めて質問と回答というのは、質問者と回答者の立場が始めから違うんだから、もともとかみ合わないのが当たり前なのかも知れない。
 今日取り上げたのは、最近の新聞に載った患者の質問とそれに対する医者の回答の記事である。こんなことくらいに「かみ合わない」などと大げさに取り上げる必要なんかないのかも知れないけれど、あちこちでかみ合わない議論がかみ合わないままに進み、しかも互いの姿勢のみならず両者を中継する司会者なども含めて「対立する意見をかみ合わせようとする努力」そのものが見られないことにどこか気になってしまうのである。

 これは、読者からの医療に関する質問箱の記事である(’09.10.23、朝日新聞、「どうしました」)。

 質問の概要は、「高2の息子が中2のとき、尿酸値が高いと分かり、食事に気をつけてきたが低くならない。医師の勧めで薬を飲んでいるが飲み続けるのは心配だ。こんな状態が続くとどうなるのか、どんな点に気をつけたらいいのか」という内容である。

 これに対するリュウマチ痛風専門医師の回答が、まるでかみ合っていないことがどうにも気になってしまった。回答はまず「尿酸とはなにか」に始まり、「尿酸値が高い状態が続くと痛風や尿路結石など様々な病気の症状が出る」ことに触れ、「尿酸値が高くなる原因の解説」へと続く。ここまでは理解できないではない。それは質問者への回答と言うよりは、新聞の読者たる質問者以外の者へ向けた一種の解説であろう。つまりこうした状況を知ることで、読者は質問者と同じ立場を共有できることになるからである。つまり、ここまでの意見は回答ではなく、回答を理解できる状態に読者を誘うための準備だと思うのである。

 さてこれで読者は質問者と尿酸値が高い状態がどんな不都合をもたらすのかについての立場を共有できることになった。そこでいよいよ回答の出番である。質問者の意図は「薬を飲んでいるが飲み続けるのは心配だ」であり、「こんな状態が続くとどうなるのか、どんな点に気をつければいいか」である。

 ところが医師の回答は「生活習慣に気をつけましょう。・・・バランスのよい食事をとってください。定期的に検査し様子を見てください」が中心で、最後に「薬は尿酸値の高さや体質や環境などそれぞれの事情を考慮して判断します。使う薬は尿酸降下薬です」を付け加えているだけなのである。これで終わりなのである。これではまるで医師は質問者の疑問になんにも答えていないのと同じではないだろうかと思ってしまったのである。

 医師は食生活に気をつけてと言っている。だが質問者は既に質問の中で「食事に気をつけてきたが低くならない」として現在も食事に配慮した生活を続けていることをきちんと述べているのである。これは私の勝手な憶測でしかないけれど、質問者が「食事に気をつけてきた」背景には恐らく過去にまたは現在も診察を受けている医師による食事の指導があったのではないかと思うのである。それなしに尿酸値を下げると言うような特別な食生活を独断で実施ことなどできないのではないかと思うからである。

 それにもかかわらず症状の改善が見られないと言うことは、そうした「食事に配慮することそのもの」に尿酸値を下げる効果がないのか、あるいは「食事の内容」が尿酸値を下げるような材料や調理方法になっていないことを示しているのではないだろうか。
 ならぱ医師としては、「その高校生の摂っている食事はカロリーが高すぎる」だとか、「肉類が多くて野菜が足りない」であるとか、更には「食べているこれこれの食品については摂取を制限する必要がある」などの意見を回答すべきではなかっただろうかと思うのである。

 もし仮に質問の対象者である高校生の摂っている食事に特に問題がなく、改めて指導する必要がなかったのだとすれば、「食事には問題がない」ことを明確に示すとともに、「食事以外のこれこれについての改善が必要」、もしくは効果の表われる期間などを示した上で「現在のままの状態を続けるように」などの指示をすべきだったのではないだろうかと思うのである。
 しかも質問者がもっとも気にしているのが「薬を飲み続けること」であることくらい、記事を一読するだけで誰にだって理解できるはずである。尿酸降下薬以外に尿酸値の高い患者に処方する医薬品があるのかどうか医師でない私には分からないから、高校生の飲んでいる薬が尿酸降下薬かどうかは分からない。だがしかし、少なくともその薬を飲み続けてもいいのかどうか、薬の効果が表われるまでにどの程度の服用期間が必要なのか、更にはその薬にはどんな副作用があるのかなどについてきちんと教えてやる必要があったのではなかっただろうか。

 私にはこの回答者である医師が、結局質問者の聞きたいことに対してなんの回答もしていないのではないかと思えてならないのである。
 「議論のための議論」と言う言葉がある。そうした言葉のあること自体、空転する意見交換と言う状態が存在することを示しているのだとは思う。しかし、ことは医療の問題である。病気についての知識の乏しい患者や家族が、知識を十分に持っているであろう医師に対してなされた質問である。しかも問われた医師に、その回答が分からないというならまだしも、なんともしたり顔で正論じみた意見を述べている様子が、こうした質問と回答との食い違い以上に医師と患者の不信感を一層際立たせてしまうのではないかと思えてならないのである。私には、この医者が「私にはどうしていいのか分かりません」との内心を、もっともらしい言葉で糊塗して回答を作り上げているように思えてならないのである。

 そしてもう一つある。編集者の無責任さである。新聞の制作がどんなセクションなり手段で作られていくのか私は知らない。それでもこれは科学記事の一種だろうから、そうした分野のスタッフが何人か係わっているはずである。読者からの質問があり、その質問を取り上げることを妥当と判断し、専門の医師に回答を求め、それを検証し、その上で記事にしたのだと思う。そしてそれはスタッフ個人が最初から記事掲載まで一人で任されていたはずはないと思う。記事になるまでには二人なのか三人なのかは分からないけれど、編集責任者まで含めて数人のスタッフが関与しているのではないかと思うのである。それにもかかわらずこんなくい違ったままの記事になってしまっていることは、少なくともこの分野に関する限りこの新聞社の紙面に対する検証能力がまるで機能していないことを示しているのではないかと思えるのである。

 特にこうした新聞による質問・回答の掲載は一度きりであって継続性がない。質問者もその記事を読んだ読者も、再質問、そして再掲載などに触れる機会は恐らく皆無であろうからである。だからこそ回答する側も、そしてそれを中継する報道側もそうした質問者の意図に十分配慮していかなければならないのではないかと思うのである。
 「質問と回答なんてこんなもんさ」と割り切ってしまえばいいのかも知れないけれど、それではこうした企画そのものがあまりにも淋しすぎるような気がしてならないのである。



                                     2009.11.26    佐々木利夫


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かみ合わない質問と回答