毎日、日曜・祝日に関わりなくJR沿いの道を通って自宅と事務所を往復する日が多いことは何度もここへ書いている。この通勤路の概要は片道50分の約半分をJRの線路に沿って歩き、そこから斜め左に折れて事務所へと向かうのが定番になっている。ところで先月、つまり9月のことである。この沿線を歩いていて、最近やけにSL(Steam Locomotive・スチーム・ロコモティブ、蒸気機関車)とすれ違うのが多いことに気づいた。しかも朝の事務所行きのみならず帰り道にも同じように出会うものだから少しずつ気になってきた。
 それでJR北海道のホームページを調べてみたところ、9月から「ニセコ号」と名づけられた臨時のSL列車が札幌始発で運行されていると分かった。ここ2〜3年毎年のように続けられている行事らしく、だとすれば昨年も一昨年も同様の現象にぶつかっていたはずなのだが、今年は特にそうした出会いが多いような気がしてならなかった。

 ところでニセコ号の運行は毎日ではなく例年土・日・祝日に限られているようで、今年の場合は9月19日(土)から11月3日(火)までの期間限定のイベントになっている。ところが今年は珍しく19日から23日(水)までがシルバーウィークと呼ばれる五連休になったものだから、この5日間だけは見かけ上毎日運行されることになったのである。運行は一日一往復でそのコースは札幌から遠くニセコと呼ばれる国定公園ニセコアンヌプリの麓、蘭越駅までである。しかも我が家はそのコースの途中の札幌駅から4っ目、発寒駅のすぐ近くであり、列車の所要時間としては札幌駅から10分足らずの位置にある。

 列車は札幌駅を8時31分に出発し約4時間をかけて蘭越駅に着き、そこから折り返して再び札幌駅へ18時29分に戻ってくる。
 私は毎朝8時15分から30分までのNHK朝の連続ドラマを見終わってから歩き出す。そうすると私とほぼ同時刻に札幌駅を出発したC型のSL(C11171)と10分ほどですれ違うことになるのである。そして帰り道、私は事務所を概ね午後6時少し前に出る。JRの線路沿いに到達するのは自宅までの半分くらいを歩いた頃だから、概ね18時15分頃になる。従ってそこから自宅到着の18時40分くらいまではずーっとJR沿いを歩いていることになる。そんな私へ札幌への終着18時29分到着を目指したSLが突進してくると言うわけである。
 しかも今年は珍しく日曜祝日が5連休になったことでSLとの出会いも必然的に多くなったというわけなのだが、そうしたすれ違いに「SLが珍しい」こと以上のどこか懐かしさみたいなものが感じられたのである。

 さてどうしてSLが「気になる」のかその原因を色々思い巡らしているうちに、それは機関車の煙突から排出されている煙の臭いにあることに気づいた。そしてそれは私の生まれ育った夕張時代の記憶でもあった。
 煙突からの煙と言っても私がすれ違うニセコ号は住宅の密集している市街地である。写真などで見るような青空に真っ白な噴煙を勢いよく吹き上げている、そんな勇姿ではない。街を外れたら連結を外してSL単独で牽引していくのかも知れないけれど、少なくとも私とすれ違うときは電気機関車が先導していて、SLはニ両目でひっそりと白い煙を小さく吐いているだけである。

 それでも毎日のようにすれ違っていると、時に風の加減で煙が私の方へと漂ってくることがある。その煙の臭いは、私が子供の頃に経験した蒸気機関車の臭いと同じだったのである。今でこそ特別に名づけられた「SLの旅」みたいな企画は日本中に広まっているけれど、私の子供の頃は線路を走るのは「汽車」であり、それはSLに決まっていた。SLはやがて時代とともにディーゼル機関車、そして電化と言う形に変化していくのだが、幼い頃の私の列車による移動はすべて蒸気機関車であった。

 私の生まれは夕張である。今でこそ財政再建団体として見る影もない姿ではあるけれど、夕張は石炭の町であり、石炭産業は日本のエネルギーの根幹でもあった。私が幼かった時代、それは石炭が必ずしも万能でないことを人々が少しずつ知るようになり、やがて来るであろう石油時代への最後のきらびやかな姿を示していた時代だったのかも知れない。「石炭で飛行機は飛ばない」、そうしたエネルギー革命の前兆が大東亜戦争のきっかけの一つになったとも言えるからである。

 ともあれ当時のエネルギーはほとんどが石炭であった。もともとは九州の方が先行していたけれど、北海道もまたあちこちに石炭の町が開拓されていった。そして石炭を輸送する手段もまた石炭であった。夕張から追分と呼ばれる町まで国鉄夕張線が走り、その先は室蘭本線の室蘭港へと続いていた。そして室蘭は石炭の積出港であると同時にあらゆる産業の基本ともいうべき製鉄の町でもあった。

 毎日、D51(デコイチ)と呼ばれる石炭列車が噴煙を吐き汽笛を鳴らしながら町を通り過ぎていく、それが夕張の日常風景でもあった。夕張は山間の沢の町である。山襞の迫る僅かな沢伝いの細長い土地に、人々は炭鉱だけを頼りにしがみつくように生活していた。そして炭鉱マンの息子として生まれた私もその中の一人であった。
 SLは自らを石炭で動かし、長い石炭貨車を幾両も引っ張っていく。客車を連ねている場合もあるが、その暖房ストーブの燃料も石炭であった。山の迫った土地はトンネルを抜きにして隣の町へ行くことはできない。トンネル、長い汽笛が鳴ってSLは暗闇へと飛び込んでいく。「窓閉めろ、早く閉めろ」、と大人たちが声をあげる。逆巻く煙が窓から車内中に飛びこんでくるからである。それは単に煙だけではなかった。石炭の燃えカスもまた粉塵となって車内に舞い、時に目の中に飛び込むことさへあった。その煙の臭いである。SLの記憶とはその車内に逆巻いてきた煙の臭いだったのである。

 いつだったか、誰だったか、何歳くらいだったか、まるで忘れてしまったけれど、友達だっただろう男の子の放った一言がその煙の臭いとともに思い出される。「汽車の臭いって、修学旅行の臭いだよな・・・」。
 私たちの修学旅行は小学校が洞爺湖で、中学は阿寒湖であった。長旅だから当然に汽車を利用しての旅であり、そのことは同時にSLの旅でもあっただろう。SLと言ったって、それは当たり前の単なる移動手段にしか過ぎないのだから、そのことに特別な思い出などないのは当たり前のことだろう。
 それでもそんな時から50年以上も経って、ふとSLの煙の臭いの中にかつての修学旅行が甦ってくるのである。それは修学旅行の列車の中で騒いだことだとか、旅館での枕投げと言ったような旅の中味からくる思い出ではなく、むしろ抽象化された「修学旅行」という言葉そのものに託された記憶である。

 夕方のSLは、もうすっかり薄暮の中にシルエットだけを見せている。SLもそろそろ人気に陰りが出始めているのだろうか、4両編成の客車の中に見える人影はまばらで同じようにシルエットになっている。室内灯もSL列車の雰囲気に合わせているのだろうか、蛍光灯ではないらしい橙色の明かりが暗闇にすれ違っていく。間もなくSLは札幌駅へ、そして私は我が家へ到着である。



                                     2009.10.7    佐々木利夫


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SLの遠い思い出