「自分の人生は自分だけのものだ」なんてことを正々堂々と言っちまうと、そのこと自体は当たり前かも知れないけれど、どこかに気恥ずかしい思いが残ってしまう。それはそんなこと改めて言うほどのことはないほどにも当然だとの思いが私たちの中にあるからなのだろうか。

 だが、そのことを自分に確かめたいと願う13歳の少女がいた。最近読んだ「わたしのなかのあなた」(ジョディ・ピコー作、川副智子訳、早川書房)の主人公である。
 彼女は16歳の姉ケイトのドナーである。姉は「急性前骨髄球性白血病」(以下単に「白血病」と呼ぶが、通常言われている白血病よりも格段に重症のようである)であり、妹はこの病気のための「完璧な適合者」である。彼女はたまたま姉妹だったことから移植のための適合者としてふさわしい型を持つドナーとされたのではなかった。彼女は最初からドナーとしてこの世に生まれてきたのである。

 臓器移植にしろ骨髄移植にしろ、患者と提供者にはHLAと呼ばれる白血球の血液型の一致が必要とされている。この型は兄弟姉妹なら4分の1の確率で一致するけれど、非血縁者間でのその割合は数百万〜数十万分の一だと言われている。
 こうした状況にあるため日本でも骨髄バンクがドナー登録を国民に呼びかけているけれど、最近('09年6月現在、日赤調べ)でも全登録者は34万人にしか過ぎない状況にある。確率ゼロではないけれど、患者が自分と一致するドナーを見つけることは奇跡とでも言えるほど困難である。

 発病当時、姉はまだ一人っ子であった。アメリカでのドナー登録の状況は知らない。だが現実に姉に適合者は見つからなかった。兄弟姉妹はいない。臓器移植が叶えられなければ白血病は死を待つ病でもある。悩みぬいた両親は、ドナーをこれから生もうと決心する。現在は遺伝子操作の可能な時代である。両親による受精したいくつかの胚の中から、4分の1の確率でドナーとして適合する一つを選び母親の胎内へと戻す。彼女「アナ」は、こうしたいわゆるデザイナー・ベィビー、極端に言うなら姉のスペアとして生まれてきたのである。

 妊娠するという現実の前に、果たして人はどこまで「我が子」を意識するだろうか。結婚して子供が生まれることを人は余りにも当たり前のこととして考えているけれど、恐らくセックスと妊娠と出産とを直接結び付けて考える親などはほとんどいないと言ってもいいのではないだろうか。
 そのことは必ずしも生まれてくる子どもの存在をないがしろにしているのとは違う。ただ妊娠は一つの結果であることにしか過ぎないのではないだろうか。愛情か、快感か、欲情か、はたまた酔った勢いか、それともロマンティクな雰囲気や膚のぬくもりを願った淋しさによるものか・・・。そのどれをも称賛も非難もすまい。人の営みの中にあるごく当然のことだと思うからである。

 彼女は生まれながらにしてドナーであった。いやむしろ、ドナーたることを目的として生まれてきたと言ってもいい。彼女にとってドナーとしての役割は出産と同時に始まった。赤ん坊にも母親にも痛みなどの負担を伴うものではないけれど、零歳の彼女の臍帯血(へその緒と胎盤に残った血液)は生まれると同時に姉に提供されたからである。それから10回近くも彼女は姉に骨髄液などを提供し続けた。骨髄液の採取は苦痛の伴うものである。それでも姉の容態は一進一退を繰り返し、そして腎臓の一つを提供しなければならないときが来た。

 アンの存在が姉のためにあることに対し、母も医者も誰一人として疑わない。私は一体何者なのか。「アナの怒りが炸裂する。『どうしたいか知りたい?。モルモットにされるのはうんざりなのよ。今度のことだって、だれもあたしの気持ちを訊かないことにうんざりなのよ』(P332)

 でも母はこう考える。「どれだけの期間をおいて、つぎの危機に直面するかはだれにもわからない。そして、そうなったら、わたしたちにはアナが必要となる。アナの血液が、アナの幹細胞が、アナの組織が、ここで」(P405)。必要とされているのはアナ自身ではなく、アナを通したアナの血液や臓器でしかないこと、一つの部品としてのアナでしかないことを彼女も母も十分に知っている。

 ついにアナは両親を被告とする裁判に救いを求める。「能力付与」(日本では耳慣れない言葉だが、未成年者に対して両親が管理権の放棄を意思表示することを言う)の請求である。

 この物語はアンとケイトのストーリーである。そのことは紛れもない事実だが、同時に母の自らへの闘いの記録でもある。先の見えない、むしろ闇としか思えない長女の繰り返される死の恐怖、その度にアンを頼るしかないことへの罪悪感、アンの言い分を身を切られるような思いで認めようとする夫とのすきま風、医療費の工面もまた両親の肩へ重くのしかかってくる。姉と妹はともに思春期を迎えている。そして「ケイトの死」という「存在するだろう近い将来」が絶え間なく母を脅迫する。

 だが母としてはこんな思いがいつも頭を離れない。「・・・だけど、もし、今しなければ、やっぱりしておけばよかったって、いつか後悔することになるわ」(P407)。そしてその「しなければならないこと」は自分ではなく、アンの血液であり骨髄液しかなかったのである。

 母は「最期の頼み」だと懇願する。「あなたは、当方の依頼人が快く腎臓を提供すれば、今後ケイトの延命のために求められる可能性がある、その他いっさいの医療的処置から解放しようとおっしゃっているわけですか?」。お母さんは深呼吸をする。「はい」(P413)。
 
アンは母の腕に飛び込み「これまで我慢してきた涙が全部、隠れた場所から現われる」(P414)。そして、「あたしはお母さんの耳に自分の唇を持っていく。その言葉を言いながらも言わないでいられたらと思う。『だめなの』」(P414)。

 母の最終弁論である。
 「今日本法廷でわたしを支持する裁決がくだされたとしても、アナに腎臓の提供を強制することはできないでしょう。だれにもそんなことはできません。でも、わたしはアナに懇願するでしょうか。・・・わかりません。自分がなにを信じるべきかわからないのです。・・・この訴訟で真に問われるべきは腎臓の提供ではなく、・・・選択だったのだということ、そして完全に自分だけで決断をくだせる人間などいないということ。たとえ裁判官によってその権利を与えられたとしても」(P596)。
 「わたしは昔、弁護士でした。でも、今はもうそうではありません。わたしはひとりの母親です。この十八年間、母親と言う立場で私がしてきたことは、かつて法廷でおこなったどんな仕事よりも困難な仕事です。この審理が始まったときにあなた(アンの弁護士)はおっしゃったわ。わたしたちのだれひとり、火のなかに飛びこんで、燃えている建物のなかから他人を救い出す義務を負っていないと。でも、あなたが人の親で、燃えている建物のなかにいるのがあなたの子どもだったら、状況は一変します。・・・わたしの人生においては、その燃えている建物のなかにいるのは、我が子のひとりで、その子を救い出す唯一のチャンスはもうひとりの子を送りこむことだったのです。・・・我が子をふたりとも失うことになるかもしれないとわかっていたかって?  もちろん気づいていました。けれど、ふたりとも守るチャンスはそれしかないということもわかっていました。」(P596〜597)。


 この物語は最後の最後になって二つのどんでん返しが語られる。一つはアナに訴訟を起こすように説得したのが姉のケイトその人だったと言うことである。アナはつぶやく。「殺してくれと彼女は頼んだのよ」(P572)。「彼女が望むものを与えられるのは、いつだってあたしだけだったんだもの」(P574)。

 判決はもちろんアナの勝訴となる。それは誰にも分かっていることだったかも知れない。恐らく裁判に係わる誰にとっても・・・。それでもアナは今、少女から大人へと脱皮しようとしている。自らの存在を自ら力で認めるときが、今、来たのである。そして母の懇願に「だめなの」と耳元で囁いたことの意味が始めて私たちに明かされる。

 判決は、弁護人に彼女が18歳になるまでの医療行為の代理人になることも命ずる。そして二つ目のどんでん返しは、判決後の後始末のため両親より少し遅れて弁護人の車で裁判所を出たアナが、交差点で交通事故に巻き込まれ脳死の宣告を受けることである。アナを診察した医師はこんな風に両親に告げる。「こんなときに考えるのもつらいことだとわかっていますが、ごく小さな窓が開かれています。・・・臓器移植についてお考えになりませんか?」(P612)
 アナと一緒に事故にあった弁護士は、傷だらけの体で叫ぶ。「・・・アナの代理権はぼくにあります。ご両親ではなく・・・。腎臓を必要としている少女が階上(うえ)の病室に入院しています」(P613)。

 物語は移植を受けたケイトが、移植そのものは失敗だったにもかかわらず奇跡ともいえる回復状態を示している8年後の姿を伝えるところで終わる。

 作者がどんな結末を意図しているのか興味を抱きながら読み進めていったのだが、こうした劇的なフィナーレは実のところ意外であり同時に多少の落胆でもあった。こうしたドラマテックな展開は物語としては素晴らしいかも知れないけれど、もっとアナ自身が抱く自らの命への思いなり、自身の存在に対する葛藤なりをきちんと解きほぐしてくれるのではないかと期待していたからでもある。

 「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」は、ゴーギャンの畢生の大作とも言われる絵画のタイトルだが、こうした疑問はこんな小さな女の子のひたむきな思いの中にも感じることができる。それはもしかしたら、人には解くことのできない久遠の問いなのだろうか。

 この物語は映画化され、今月9日にも劇場公開されるとの解説が載っていた(10.3、朝日新聞、e6面)。しかもそこには「原作と映画では結末が異なる。監督の意図に思い巡らすのも一興だ」と書かれていた。どこがどう違っているのかまるで分からないけれど、私が抱いた二つのどんでん返しに対する違和感とどこかで共通しているのかも知れない。



                                     2009.10.3    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



自らの存在とは?