年末から年始にかけて「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」(ポール・オースター編、柴田元幸他訳、新潮社)を読んだ。この本はアメリカのラジオで放送されたもので、広くアメリカ全土から寄せられた投書による物語から構成されている。一つ一つのストーリーは1ページに満たないものから長くてもせいぜいが4ページくらいまでである。

 「物語は事実でなければならず、短くないといけませんが、内容やスタイルに関しては何ら制限はありません。・・・世界とはこういうものだという私たちの予想をくつがえす物語であり、私たちの家族の歴史のなか、私たちの心や体、私たちの魂のなかで働いている神秘にして知りがたいさまざまな力を明かしてくれる逸話なのです」。編者はこんな風にラジオの視聴者に呼びかけた(P11)。

 こうして集められた物語は4000にも及び、それらはラジオで放送された。そしてその中から選ばれた179篇が活字として今私の目の前にある。
 「一つひとつの物語がポケットに入るくらい小さい」(P18)にもかかわらず、前触れもなくふっと頭に浮かぶ共感をストーリーの一つひとつは持っている。
 編者の言う「誰かがこの本を最初から最後まで読んで、一度も涙を流さず一度も声を上げて笑わないという事態は想像しがたい」(P17)はいささか手前味噌過ぎるとの感じがしないでもないけれど、久し振りに手ごたえを感じた一冊であった。

 「ある日曜の朝早くにスタントン通りを歩いていると、何メートルか先に一羽の鶏が見えた。・・・18番街で、鶏は南へ曲がった。角から四軒目家まで来ると、・・・玄関前の階段をビョンピョン上がって、金属の防風ドアをくちばしで鋭く叩いた。やや間があって、ドアが開き、鶏は中に入っていった」(P22)。

 500ページを超えるこの本は、「鶏」と題するこんな短い物語から始まる。ニワトリの意外な行動に少し驚き、クスリと笑ってしまい、そんな自分の気持ちに少し感心し、そして当たり前の日常に戻っていく作者の姿が目に見えるようである。

 自転車物語(P65)

 盗まれて10年を経て再びユダヤ人少女のもとへとポロポロになって戻ってきた大切な夢そのものだった赤いタイヤの自転車。だがその10年はナチスの迫害からの逃避の10年であり、両親を強制収容所で失った10年でもあった。戻ってきたことの奇跡よりも戦争と死の冷たい残酷さをこの自転車は教えてくれる。そして戦争が終わってもなお、赤いタイヤはユダヤを象徴していると知らされて再びその自転車を手放さなければならなかった苦しさも・・・。

 学ばなかった教訓(P87)

 「でも、あの日パパに教わったのは、責任というものをめぐる教訓ではない。パパの笑いを信用しないことをあたしは学んだのだ。あたしのパパは笑いさえも痛いのだ」。帽子を失くしたと父に報告する少女、くすくす笑いながら抱きしめられ、かわいいよ言ってくれたパパ。愛されている思った少女はいきなり頬を打たれる。それにしてもここに引用した一行は、この少女が感じた残酷なまでの戸惑いをはっきりと示している。

 ファミリー・クリスマス(P90)

 不況の中で迎えた貧しい家族のクリスマス。プレゼントの余裕などどこにもない。次の日の朝、目を覚ました家族の前に溢れるようなプレゼントの包み。その一つ一つは、家族が知らぬ間に失くしたと思っていた古いショーツやスリッパや継ぎの当たった皺くちゃのズボンなどであった。
 一番下の弟が、一ヶ月もかけて無くなっても誰も気づかないだろう靴下や帽子などを密かに集めていたのだった。捨てられ忘れ去られてもいいような品々に込められた、このきらめくような輝きと家族に対するひたむきさは貧しさを超えた感動を私たちに与えてくれる。

 1949年、クリスマスの朝(P285)

 「実は今朝、サンタさんに会ったんだが、君たちの居場所が分からないと言ってひどく困っていたよ。それでおじさんの家にプレゼントを預かってくれないかと言われたんだ・・・」
 雨に濡れながら、着の身着のままらしい親子連れの五人が道端でバスを待っている。そこへ通りかかった三人の娘を乗せた父が雨宿り代わりに車へと招く。そしてしばし、父は娘たちに小さくウインクしてサンタからのメッセージを濡れねずみの子供たちへ伝える。はじける笑顔。「あの人形は・・・、あのおもちゃは私のだ」との娘たちそれぞれの小さな思いを残したまま、プレゼントはそれとは知らぬ無邪気な腕に抱かれていく。
 「わたしたち姉妹が、人を喜ばせることの素晴らしさを知ったはじめてのクリスマスでした」。こんな言葉がこの世に語り続けられる限り、人はまだまだ捨てたもんじゃない。

 1975年、ユタ

 「戦争」と言うジャンルには南北戦争からドイツとの戦いなどアメリカの経験した様々が記されている。もちろん日米もベトナムも・・・。
 短い記録ながらこの本に記されたそれぞれは、戦争とは決して国と国の戦いではなく軍人やその家族一人ひとりの思いであることを知らせている。
 私はこれまで戦争を、それが日清日露のような戦勝の記憶にしろ太平洋戦争のような敗戦にしろ、すべて日本人にかかわるものとしてしか理解していなかったような気がする。

 だがこの本に書かれた戦争には、勝ったことの喜びなどカケラもない。記されているのはアメリカ人一人ひとりが経験した戦争に対する無残さ無念さである。人の死の持つ重さに日米の違いなどあるはずもなかったのである。ここに書かれているのは、紛れもなく戦争には勝者などいないことの数々である。

 「誠に残念なお知らせでありますが・・・」。たった一枚の紙きれを受け取るとてつもない重さのなんと静かなことか(「ある秋の午後」P340)。

 「戦争が終わった時、・・・九歳の少年は許可をもらって父親の車のクラクションを鳴らし続けた。とうとうバッテリーが上がってしまうまで」。ベトナム戦争が終わって父が死ぬことなどなくなったと確信した少年の、まっすぐな喜びがここには満ちている(「1975年、ユタ」P366)。

 フォーチュン・クッキー(P408)

 癌で死んだ母が大切に保存していた「占いクッキー」に入っていたおみくじ。その母の葬儀の翌日、娘の夫がひいたおみくじには、母のおみくじと同じ言葉「あなたと妻がともに過ごす日々は幸いなり」が書かれていた。きっとこの娘は母と同じ幸せを味わうことができるだろう。

 そして・・・

 物語はまだまだ続く。家事も生活も丸ごと任せていた大好きな夫が亡くなった。冷蔵庫のプラグを差し込んだちょうどその時、街中が停電になった。私が街中のヒュースを飛ばしてしまったのだろうかと突然思い、馬鹿みたいに自分を過大評価したことに笑いがこみ上げてきて、そしてまだ笑える自分がここにいることに力づけられる話(「知らなかった」P429)、何にもない風景と僅か二十四時間の出来事が「こここそが私の居場所」と伝えてくれる話(「海辺」P516)、いつもの風景が突然に優しくなって「週末には車を洗おう」とその人に囁きかける話(「長い冬のあとーワシントンDC」P520)、何事も起きない当たり前の平穏がとっても貴重なのだと子供の頃の記憶が教えてくれる話(「芝生の上で」P546)などなど・・・。

 人の思いとはそれぞれの思いを意味するのだし、それはまさにその人の思いであって人の数だけ思いは違うことだろう。
 だがどこかで人は思いの中でつながっているような気がする。憎しみの連鎖もまた人の思いかも知れないけれど、この本に盛られた数々は理解しあえる様々もまた同じように人の思いなのだと伝えてくれているような気がする。



                                     2009.1.8    佐々木利夫


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