こうした思いは、一つには人生のほとんどを費やしてきた租税に関する仕事からくる思い込みからきているのかも知れない。なんたって「事実の証明は、証拠による」(刑訴法317条)を仕事のみならず生き方のバックボーンのように思っててこれまでを過ごしてきたのだから・・・。そんな私にこんな新聞記事が語りかけてきた。

 「・・・そして、何より危惧されるのは、性犯罪事件が裁判員裁判の対象事件とされていること自体の問題性がほとんど議論されていないことである。性犯罪被害者からは現行制度に不安と反対の声があがっている」(10.1、朝日新聞、私の視点、弁護士・大学院准教授・犯罪被害者学、女性)。

 これは投稿記事である。この記事で述べられている彼女の延々たる論調は、すべてこの言葉から続く。しかもこの言葉が示している前提はこの数行だけで構成されており、それを裏付ける資料も示されないままなのである。彼女がここで述べようとしている意見は、まさに「前提が正しいのだから、それに続く意見も正しい」と主張しているのである。私にはそうした因果の結びがどうしても彼女の思い込みによるものではないかと思えてならないのである。

 つまり私が言いたいのは、例えば少なくとも「私が係わった〇人の被害者のうち×人は・・・」であるとか、「〇〇に寄せられた×人の被害者の意見によれば・・・」、または「〇〇機関などによる全国調査の結果によれば」などの裏づけされたデータを示してこそ、彼女の主張する前提そのものの立証になるのではないかと思うからである。

 果たしてこの論者は、こうした性犯罪被害者の意見を集約するためにどんな方法をとったのだろうか。つい最近実施された青森での性犯罪にかかる裁判員制度で改めて知ったことなのだし、それは当然のことだと思うけれど、加害者の氏名や年齢などが公表されるのは当然としても、被害者が特定されるような情報が裁判に直接関与する者以外に漏れることなど決してないことが明らかになった。
 もちろん被害を受け付けた警察やその後の裁判に係わった人たちが被害者を特定された人物として知ることは可能ではあろうけれど、法定された守秘義務以前の問題として彼等がそのことを外部に漏らすことなどあり得ないことは既に確立されているのではないだろうか。だとすれば、どこの誰かも分からない被害者の意見を、この論者はどうやって集約することができたのだろうか。

 「私の許へ相談にきた被害者の意見」と言うのなら、それが被害者を代表する意見として統計的に有意なデータになり得るかどうかはともかくとして、それはそれで分からないではない。だが裁判員制度そのものが開始されたのは7月である。そして全国で最初に性犯罪にかかる裁判員制度による裁判が始まったのは、青森地裁の9月2日である。その後も何件か裁判員による性犯罪裁判が開かれているらしいけれど、論者がこの投稿をした10月1日だから、それまでの1〜2ヶ月の間に、論者は果たして何人の被害者から前提としているような事実としてのデータを得ることができたのだろうか。

 少なくとも論者自身がこの青森の被害者と直接係わっていないことは、「(この事件が)性犯罪第1号事件ということで大きく報道され苦痛に感じ、意見陳述を躊躇(ちゅうちょ)されたと聞く」、と単なる伝聞にしか過ぎないと書いていることからも知ることができる。

 かつて統計学を通信教育で学んだときにこんな話があった。ある統計の結果として、「サラリーマンの3分の1が昼飯にラーメンを食べている」が示されたと言うのである。ところがそれは、ある人が食堂に行ったときに先客が二人いてカレーライスと親子どんぶりを食べていて、そして本人がラーメンを注文した、ただそれだけを用いた結果だったという、恐らく作り物の笑い話である。それだって、サラリーマンの昼食におけるラーメンの選択割合33%と言う数字に数的な処理としての誤りがあるわけではない。ただそれを統計なり、ものごとを判断するための前提として利用するためには、母集団であるとかデータを収集する対象などの客観性がきちんとされていなければならないと言う基本が満足されていないというだけのことである。

 裏づけのない主張を根拠に、それがあたかも被害者全員が抱いている意見の総和であるみたいな言い方は、特に新聞のような不特定多数を読者とする場における意見表明としては正当性を欠いているのではないかと私には思えるのである。
 論者は女性である。恐らくこうした意見の背景には、「被害女性ならば当然そう思うはずである」とする強い思い込みがあるのではないだろうか。そしてそれはやがて「被害女性に限らず女性全体もそう思っているに違いない」に発展し、更には「いやいや女性だけでなく、人間なら当然に抱く思いのはずである」にまで及んでいってしまったのではないかと思うのである。

 私はそうした「思い」そのものを間違いだと言っているのではない。データとしての裏づけのないものを「すべて嘘だ」とするのは大きな過ちだろう。それは単に「データがない」というに過ぎないのであり、「データがない」ことは「証明できない」に過ぎないのであって、「結論が誤りだ」に結びつくものではないからである。
 でも論者は弁護士であり学者であって、この意見は井戸端会議や仲間との飲み会での単なる感想ではなく新聞への投稿である。ならばある結論に導くためにはそうした結論を導くための信頼できるデータの存在が不可欠であるくらいのことには思いを巡らせて欲しかったと思うのである。この程度の論述では論者の用いた前提は「正しい」のか「誤り」なのか「どちらとも言えない」状況にあるのであり、そうした前提から一定の結論を導き出すことなど決して許されてはならないと思うのである。

 私はこの文章を「一つには自らが係わってきた仕事から来る思い込みがあるからなのかも知れない」との言葉から書き始めた。だとするならこうした意見もまた前提を証明することなしに書き連ねた無責任な見解と言うことになるのかも知れない。
 まあ、この場はネットに公開しているとは言えど私の個人的な意見の場だから、そこのところは一つお手柔らかに・・・とも思っている。だが私の身勝手さはともかくとして、前提が不確かなままで一定の結論を導き出すことは、たとえそれがどんなに社会的に承認されるような天女の微笑みを備えていたとしても、やっぱり誤りではないのかと老税理士は頑なに思い込んでいるのである。



                                     2009.10.13    佐々木利夫


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証明と前提