「・・・企業は利益を上げるために派遣社員を使い捨てにしてきました。競争に敗れた人は路上生活に転落です。職を失った若者たちは『小泉・竹中路線のせいだ』と言っています・・・」(作家 雨宮処凛 「見捨てない社会を」 朝日新聞 7.29)。

 本当にそうなのだろうか。彼の言っていることは本当のことなのだろうか。この言い分を嘘だと言うだけのデータをきちんと持ち合わせている訳ではないけれど、私には現在の派遣切りによる失業者の増加の現実は、今から4年前の「小泉・竹中路線のせい」であるとするよりも、経済のグローバル化とそれに伴うアメリカ発サブプライムローン問題に端を発した世界的な経済危機、つまり「リーマンショックのせい」であることのほうがずっとずっと分かり易いような気がしてならない。

 このことは、例えば同じ日の同紙の「オピニオン∞・韓国のワーキングプァ」特集で取材記者自らがその前置きで「若者たちの雇用不安が世界各地で社会問題化しているが韓国も事態は深刻だ・・・」と書いている(15面)ことからも容易に想像がつく。

 仮に「小泉・竹中路線のせい」であることを一つの要因として認めてもいい。だが派遣切りなどで仕事を失くした若者たちは、そうした事実を本当に確かめた上で発言しているのだろうか。
 私にはとてもそうとは思えない。確かに若者は「派遣だから要らなくなったらすぐ首を切られる」と言う。そうした発言のあることを否定はしないけれど、本当にそうした事実が「小泉・竹中」が実施した政策の結果によるものだとどんな方法で確かめたのだろうかと私は思うのである。

 派遣にしろアルバイトにしろ、そうした正社員でない立場の仕事を選んだのはむしろ、「ここは私の仕事する居場所じゃない」であるとか、「一身上の都合」、「こんな仕事など私に向いていない」などと言って会社などの組織に長期間拘束されるような人生を嫌い、自由で気ままでそれなり収入の多い臨時の生活を自ら選んだ結果によるものだったのではなかっただろうか。

 現在の現実が、例えば「正社員なんて募集そのものがない」、「アルバイトの仕事もない」ほど不況であることを否定するつもりはない。正社員そのものの雇用の継続すら難しくなっている現実があるのだから、ましてや派遣などにまで求職が拡大することなど期待できないとの気持ちの分からないではない。

 だがそうした派遣への道を選んだのは、正社員として地道に勤め上げることの努力を自ら否定し、自分探しであるとか青春だなどと言い募ってフリーな仕事や海外ボランティアや拘束されることのない人生を、自らの責任で選択した結果ではなかったのか、そんな風に私には思えるのである。
 それを今になって、「小泉・竹中路線のせい」だとして自らの責任を放棄するのは余りにも虫が良すぎるのではないだろうか。

 しかもそうした発言は恐らく自らが検証した結論による意見ではない。きっと誰かがテレビでしたり顔でのたもうた意見を、何の確証もなくオウム返しに繰り返しているにしか過ぎないのではないだろうか。
 「無差別殺人の精神分析」(片田珠美、新潮選書)は、「誰でも良かった」とする大量殺人の背景に「他責」を掲げた。なんでもかんでも「他責」を持ってくると説明できるような彼女の論調には、必ずしも全面的に賛成できかねるけれど、現代はこぞって「私のせいじゃない」、「誰かのせいだ」と不利益の矛先を自分以外に向けようとし過ぎる傾向は明らかに感じ取ることができる。

 私が酒を覚えた最初の頃のことだからもう40年以上も前の話しになるが、まだカラオケのなかった時代の飲み会はまさに「小皿叩いてチャンチキオケサ」が全盛で、そうした余興での先輩の持ち歌の中にこんなのがあった。
 「・・・電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんな私が悪いのよ・・・」。どことなく都都逸っぽい感じがするこの曲の前後の歌詞もその節回しも今ではすっかり忘れてしまっているけれど、なぜかこの部分だけが記憶に残っている。

 こんな言葉は単なる酔っ払いの戯言であり、こうした歌詞のなかに自虐性や自責の念を感じるほどのことはないと思うけれど、それでも現代は「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも」みんな「あんたのせいだ」と世の中全部が叫んでいるような気がしてならない。

 派遣切りやリストラで苦しんでいる現実を否定しようとは思わないし、そうした現実のすべてを自己責任として現に職を失ってしまった者へ押し付けようとするつもりもない。恐らくこうした現実は、今まさに自らの力ではどうすることもできないほどの勢いで社会を圧倒し侵食してきていることだろう。

 それでもなお私は、こうした他責の風潮が増殖していく現実を前に、どこかでふとこんなことを思ってしまうのである。階級やしがらみの中で下積みの世俗のつらさに耐えながら赤提灯で僅かに憂さを晴らしていた当たり前で詰まらないと言われてきた「なんでもない会社員や公務員たち」の味わう我慢や諦めや羨望と、自分探しなどと名づけて転職や放浪などを青春の謳歌だと称していた人たちのあの「勝利者みたいな満足」とは、たとえその満足が結果として空ろな幻にしか過ぎなかったとしても、少しくらい相殺させてもらってもいいのではないだろうか・・・と・・・。



                                     2009.8.8    佐々木利夫


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