髪の毛と言うのは思ったよりも人の生き様に影響を与えることが多いのかも知れない。そうしたことは毎日のテレビコマーシャルなどで養毛剤と言うか育毛剤と言うべきか、そうした毛髪ケアのための商品が手を変え品を変えて登場していることからもある程度理解することができる。

 私も70歳を目前にして当然に白髪は増えてきているし、何にも増して毛髪そのものの腰が弱くなってきてどことなく手ざわりが頼りなくなってきていることは、日頃の経験からも体感できる。そうした歳を経るにしたがって頭髪が薄くなり白くなっていくことは、むしろ大げさに言うなら世界の誰もが理解し経験することであり、それが我が身に降りかかってきたところで嘆くことではないだろう。

 とは言え、そうな風に達観できたかのような物言いができることそのものが、私自身の頭髪がどちらかと言うなら「薄くなる」ことから僅かにもしろ距離を置いている現状があるからなのかも知れない。この歳になってみれば、仲間のほとんども当然に昔ながらの「くろぐろ、たっぷり」を自認しているのは一人としていないような状況にある。ただ、自らの現実も含めて頭髪が仲間同士などでテーマに上るのは、どちらかと言えば「白いこと」ではなく「薄いこと」にあるように思える。

 そうした気になる背景と言うのは髪の毛がその人の外観への影響が大きく、しかもその外観の大部分が見かけ上の年齢に影響を与えていると感じているからなのかも知れない。多少若く見られたからと言って、それほど今の生き様に影響はないと思うのだが、それでも私自身振り返ってみても頭髪にそれなりの執着があることを否定はできない。そうした執着は日常の頭髪の手入れと言う形で具体的に現れてくるのだろうし、頭髪のケアに関する新聞や雑誌やテレビなどの情報が気になるのもその一つだと言えるだろう。

 つい最近の新聞が、頭皮へのマッサージに関する特集を組んでいた(「髪育てる『頭皮』ケアを」、朝日新聞09.11.29)。以下の発言はあるヘアサロンを経営する専門家が話したとするものである。

 「・・・それだけ頭皮は新陳代謝が活発なんだ。だから頭皮ケアは重要で、逆に間違うと頭皮を荒らし、傷つける。(それで)『ゼログラムの力』で触れ始める大切さに気づいた」

 私はこれを読んで「ゼログラムの力」と言う表現がなんだかとても気になったのである。そうした表現が例えば、丁寧に優しく触れる、そっと触れる、そうしたことへの一種の比喩として使ったと言うなら分からないではない。ガリガリ引っかくようなスタイルからそっと触れるまでにはいくつもの段階があるだろうから、その中でもっとも優しいタッチと言う意味で使ったと言うならそうした表現を理解できないではない。
 だがこの「ゼログラムの力」の説明として付け加えられている一言を聞いて、このゼログラムは嘘ではないかと思ってしまったのである。そしてその一言で、この特集そのものがまるで信用できないものになってしまったのではないかとの疑問が湧いてきたのである。

 それは「ゼログラムの力」を、「量りで量ったんだ」と説明していたからである。ゼログラムのような感じでゆっくり触りましょうと言うなら一種のたとえ話として分からないではない。だが、この解説者は具体的に「量りで量った」のである。私には頭皮に触れる力の具体的な測定方法を知らないし、論者もそれについては少しも触れていない。ゼログラムと言う重さをどうやって測るのかと言う直接的な疑問もあるけれど、仮にそれが僅か数ミリグラムのことだとしても、その現実的な重量をどんな道具を使いどんな方法で測定するのかまるで理解できないのである。まあ一歩譲って、そこのところは何らかの方法で測定できたのだと許容することにしよう。

 ところで、「ゼログラムで触れる」と言うのは一体どういう状態を示しているのだろうか。私なんかに言わせれば、ゼログラムなど量りすら用いないで測定できると思うのである。触れる以上は必ず重さがかかる、重さがかからない、つまりゼロだと言うならそれは触れていないことだと思うからである。解説者によると「皮膚の直前で止めてふわっと触れる」のだそうである。言葉として分からないではない。「ふわっと触れる」のは現実に触れているのだからゼログラムではないだろう。だとすれば「直前で止める」ことがいわゆる「ゼログラムの力」と言うのだろうか。そうだとするなら「直前で止める」ことと「触れていない状態、なんにもしていない状態」とはどんな風に違うのだろうか。

 私はそうした力を信じていないから理解できないのかも知れないが、いわゆる指先からオーラみたいなものが発せられていて、そのオーラが皮膚に何らかの刺激を与えるのだと言うなら言葉として分からないではない。母親が子どもに対して「痛いの、痛いの、飛んでいけー」などと話しかけながら指先でさすったり、手当てと言うのが「手を当てる」仕草に鎮痛の効果があるからなのだと言われていることなどは、指先から何らかの精神的なエネルギーの放射があることを意味していると言えないでもないからである。
 だが解説者の意見の中にはそうしたオーラのような現象には少しも触れられていないのである。確かにこのケアを体験した新聞記者は「・・・頭に触れられる前に確かに気配を感じて、そこからゆっくりと丁寧に指が頭皮に触れてきた」と書いている。だが気配とはなんなのだろうか。その気配のことを「ゼログラム」と表現しているのだろうか。その感触は取材した記者の、例えば料理番組や美味い物店の紹介などで試食する料理の全部に「おいしい」を連発するようなちょうちん持ちから出た記述ではなく、本当に「触れられていないにも係わらず気配として感じた」のだろうか。

 「頭皮に触れられる直前の気配」、そんなものを人が具体的に感じることができるのなら、それを「ゼログラムの力」と表現することに異論はない。でも本当に頭皮に触れる直前で止める気配を、人は具体的に感じることができるのだろうか。気配と言う言葉が存在しているのだから、その気配を人が感じたと言うならそのことを否定はすまい。しかし気配とは例えばかすかにもしろ物音であるとか他者の匂い、風のそよぎなどの感触を言うのではないのだろうか。

 仮に自分の指先の近づきに気配を感じることができたとしても、その「気配」そのものに頭皮ケアの効果のあることを、論者は実証すべきである。また仮にそうでなくとも、少なくとも「気配だけで頭皮のケアに効果がある」程度の宣言くらいはすべきだったのではないかと思うのである。そうした言葉があれば、少なくとも「気配にそんな効果などあるものか」と疑問を持つ者はこの新聞記事を無視するだろうし、信じた者だけがそうしたケアを実践するだろうからである。

 量りで量った「ゼログラム」とは、まさにゼロを意味している。タバコ一本、一円硬貨一枚の重さが約1グラムだと言われている。だとすればゼロであることに効果があるのだとすれば、頭皮ケアを意識する人は頭皮を僅かにもせよ圧迫する帽子を被ることもできず、道を歩いて風に髪をそよがせることも、シャワーを頭から浴びることも、櫛で髪の手入れをすることすらできないことになる。身動きするだけで髪の毛の持つ慣性はゼロを超える力を頭皮に与えるはずだから、頭皮ケアを真剣に実行しようとする人々は、頭に触ることはもとより室内で身動きすることもできないまま、ひたすら頭皮への刺激がゼロであること目指して毎日を過ごさなければならないことになる。そんな馬鹿な・・・と、「こんな言い方は屁理屈であること」を承知で私はゼログラムの理論を胡散臭く眺めているのである。

 一時期、育毛剤を頭皮に振りかけた後、ヘアブラシ様のもので叩いてマッサージをするという手法が流行したことがあった。私は試したことがないけれど、そうした手法が一世を風靡したような気がしているから、恐らくはそれなりの権威のある育毛剤メーカーが開発した手法なのだろう。取り上げたゼログラムは育毛サロンでの話ではあるが、「叩く」、「ゼロ」とまるで矛盾した手法が育毛という同じ専門家集団の中で無責任なまま垂れ流しされていることに、私は宣伝あって実証なしの身勝手な販売戦略を見るのである。

 かつて私の仲間の一人に、顔を洗う石鹸は生え際の頭髪を茶色にしていまう恐れがあるという理由で、顔そのものもシャンプーで洗うと言う剛の者がいた。頭皮への刺激の強さと頭皮ケアとがどんな風に関係しているのか私はまるで知らない。だが、頭皮に関心を持つ人が多いこととは裏腹に、こうしたゼログラムの刺激というのは叩いて育てるという情報と同様、丸っきり根拠のない嘘なのではないかと私には思えてならないのである。



                                     2009.12.18    佐々木利夫


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