私が牛乳を知ったのは、恐らく小学校の学校給食からではないかと思っている。私が生まれたのは昭和15(1940)年の夕張だから、小学校入学は昭和21年ということになる。日中戦争などがそれより以前から続いていたのだから、私たちが無意識に使っている戦争という観念が昭和16(1941)年12月8日の真珠湾から突然に始まったわけではない。その辺のところは容赦願うとして、常識的に言って開戦は私が1歳の時であり、終わったのは終結を告げる玉音放送を一つの区切りとするなら昭和20(1945)年8月15日、5歳の時である。したがって私の小学校時代は敗戦から打ち続く物資窮乏、生活困窮の時代のど真ん中にあったことになる。
 だから食べることだって配給などと呼ばれた政府の管理下にあったのである。特に子どもにとっては腹の足しになることがすべてに優先する日常生活の基本であったから、恐らく牛乳なんぞもぜいたく品として我々の家庭の食卓に上ることなどなかったであろう時代であった。

 だが間もなく学校給食という想像すら出来ないような制度が出現した。給食が始まったのは昭和22年だと言われているから、全国一律実施だとすればその時期は私の小学校2年生ということになる。しかし実際は東京近辺から始まったとされているので、北海道の片田舎の私の口にまで届いたのはもっと遅くなってからのことだろう。それでも給食費と書いた袋にお金を入れて学校へ持っていったような記憶が残っているから無料だったわけではないらしい。
 その学校給食でアルミらしいカップに注がれた牛乳がパンの傍らに添えられていたのが、私が牛乳を知った最初だったような気がしている。

 もちろん給食で牛乳を飲んだと言ったところで、牛乳そのものではなく脱脂粉乳と呼ばれる牛乳から脂肪分を除いた加工品だった。脱脂粉乳による給食はアメリカの民間団体やユニセフ(国連児童基金)からの寄付で始まったと言われているが、これを給食担当の同級生がアルミのバケツに湯で割ってひとりひとりのカップへとひしゃくで配っていた。それほど美味いものではなかったかも知れないけれど、口に入るものならなんでもOKだったひもじさの塊りの子供時代だったから、残さずに飲んでしまったような気がしている。

 前置きが長くなったが、さてそんな意識を引きずっての牛乳である。牛乳が牛の乳であることくらい当たり前のこととして、私自身だって子供の頃から知っていた。そして牛がどんな姿をしているかだって、私の生まれた夕張の近くで実物を見たことこそなかったと思うけれど、角の生えた絵くらい描いたかも知れないくらいに常識として知っていた。

 ただ、私が記憶する限り、牛と牛乳に関する知識はしばらくの間そこまでで止まっていたような気がする。それも就職して、成人して、結婚して、子供が出来てからもである。「牛乳は牛の乳」、そこまでの理解で日常生活にはなんの不都合もなかったからである。
 それがある日突然、恐らく30歳を過ぎていたような気がしているのだが、私は自身のとんでもない思い込みに気づいたのである。思い込みと言うよりは、それまで牛乳についてまるで中途半端な理解しかしていなかったことに突然気づかされたのである。

 それは何か。私は牛というものがみんな腹の下に、でっかいおっぱいをぶら下げているものだと無意識に思い込んでいたことである。つまり私の頭の中にはメス牛しか存在していなかったのである。オスの牛はこの世に存在しないという間違った理解をしていたというのではない。オス、メスを考える以前に牛は単に牛でしかなかったのである。こうした先入観は必然的に牛乳は牛から自動的に供給されるという思いへとつながり、牛そのものの存在が単なる「牛乳製造機」でしかなかったということでもあった。牛は牛というだけで毎日毎日自動的に牛乳を生産し続けるのだと、私は勝手に思い込んでいたのである。

 もちろんそれは、何も考えていなかったということに過ぎず、牛のオス、メスについての知識が存在していなかったこととは違う。それでもこんな当たり前の知識が私の中にはなかったのである。どんな幼稚な質問に対してだって、牛がメスだけで存在しているなどと私が思ったことなど金輪際ない。単性生殖の生物が存在していることを知らないではないけれど、それでも牛や馬のような個体に雌雄の別のあることくらい余りにも当たり前のこととして理解していたつもりである。

 それでも私にとって牛は、いつも腹の下にでかいおっぱいを抱えて草を食んでいる姿でしかなかったのは事実である。確かに北海道では肉牛としての飼育は珍しく、見る姿のほとんどがホルスタイン系の乳牛が多かった。だから写真や映画やテレビなどで見る牛の姿は、草を食んでいるにしろ搾乳されているにしろ、おっぱいを抱えたメス牛ばかりであった。しかも、牛の生殖は競走馬などのような種付けによるものは極端に少なくほとんどが冷凍精子を使った人工授精だったし、生まれた子牛もメスだけが重宝されオスは直ちにソーセージなどの原料として処分されることが多かった。だから種牛とされる僅かを除いてオスが成牛になるまで飼育されることは極端に少なく、そうした面からもオス牛の姿は我々の印象からは一層希薄になっていったのかも知れない。

 こうしたメス牛偏重の思いからは、次のようなとんでもない知識が引きづられて出て来る。老化や病気などを除き、牛はいつでも乳を出す動物だとする強い思い込みである。そうした思いの下では人工授精は単に次の世代の牛乳製造機を作るためだけの手段でしかないのである。こうした知識は、無知蒙昧を承知の上ではあるけれど、とりあえず一貫した筋道を持っていた。だからそこにある矛盾には何かことがあるまでまるで気づかないと言う現象を生んでいったのである。

 ある日その矛盾に気づいたとき、私は一瞬声を失った。もちろんさりげなく、しかもそんなことくらい昔から承知していたかのように取り繕ったけれど、「乳を出すのはメス牛だけであり、メス牛は妊娠しなければ乳を出さない」という余りにも当然過ぎる知識が、ある日突然に私を愕然とさせたのである。妊娠は当然に子牛の出産につながる。出産後しばらくは乳を出すだろうけれど、一定の期間を経過するとともにやがて止まる。そんなことは人間も含めて生物学の知識として当然に知ってはいたけれど、牛乳もまたそれと同列にあるとの知識とはまるで結びついていなかったのである。

 搾乳を続けるためには妊娠と出産を繰り返さなければならない、そんな当たり前のことが私にとってカルチャーショックとも言うべき衝撃を与えたのである。もちろん年齢を経ることよってメス牛も妊娠しにくくなってくるだろうし、場合によっては搾乳効率も悪くなっていくことだろう。それでも「妊娠がなければ搾乳もまたできない」は一つの生物としての余りにも簡単な現象であることに、それまでの私はまるで思い及ばなかったのである。

 もう一度言う。こんな言い分を繰り返すこと自体がいかに己の無知を晒すことであるかを承知の上ではあるけれど、私の中には長い間「黙っていても乳を出し続ける牛」が「牛」であり、それ以外に「牛」は存在していなかったのである。あぁ、なんたることか・・・。



                                     2009.10.17    佐々木利夫


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牛と牛乳の関係