こんなタイトルで三人の論者による若者論が新聞に掲載されていた(朝日、’09.4.26、9面・耕論)。そうした論評が特集される背景の一つに、若者について語られている最近の著書の多さがあるのかも知れない。
 例えば「他人見下す若者たち・自分以下はバカの時代」(速水敏彦、講談社)、「若者はなぜ3年で辞めるのか?」(城繁幸、光文社)、「最高学府はバカだらけ・全入学の大学『崖っぷち』事情」(石渡嶺司、光文社)、「高学歴ワーキングプァ・『フリーター生産工場』と大学院」(水井昭道、光文社)など、現代の若者をめぐる話題がやたら出版され始めているからである。

 この新聞論評の論者はいずれも37〜39歳の男女であった。この年齢からすると、「私」、「論者」、「対象たる若者群」にはそれぞれに相応のジェネレーションギャップがあることになるだろうから、互いに理解できない溝があったとしても当然といえば当然かも知れない。ただそれにしても、この論者たちの意見にはどことない思い込みの強さ、言いっ放しの無責任さなどが感じられてならなかった。

 例えば論者の一人、国際人権NGO「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」の日本代表である土井香苗(かなえ)氏の意見によれば、「かつての日本はすべてが右肩上がりで・・・追いつき追い越すモデルがあり、達成すべき数値目標があり、そこへの道筋も見えていた」ことを所与として、「そういう時代の直線的な価値観や視点に立てば、今の若者には覇気がなく、内向き、といった評価になるだろう」と断じ、そうした視点からすればかつての右肩上がりの時代は「みんなが同じ方向を向き、同じような能力を備えていることが期待される時代や社会は、気持ちが悪い」とまで言い切る。

 恐らく彼女の言い分は、「(現代の若者は覇気がなさそうに見えるけれどそれは)価値観の多様化が一段と広がりだしたことなどが背景にあり、・・・内心では少しでも『公益』に貢献したいという熱い思いを持つ若者が増えているのだから、否定的なるよりはまずは肯定的に見つめなおしてほしい」というところに集約されるのであろう。
 だが果たして現代の若者集団は本当に「公益に貢献したいという熱い思い」を持っているのだろうか。それはまさに彼女が所属する国際人権NGOに興味を寄せている若者に見られる特徴から来るものなのではないのか。そうした限られたデータから若者全体の特徴へと展開させる手法は、どうしても知らずに自分の望む結論への誘導になってしまうような気がする。

 昔の若者、例えば私もかつてはそうだったと思うのだが、一直線の価値観が目の前に広がっていてそのレールに乗ることで安心した人生を送れると思っていたのかと問われたとき、そんなにすんなりとは納得できないものがある。人は得てして物事をグループ化してそこに何らかの集団的な傾向を見ようとする。そうした傾向は今に始まったことではない。

 アメリカ人はこうだけど日本人はこうだ、薩摩っぽはこんな性格だけれど会津衆は違う、などなど・・・、そうした分類がもっとも単純に表われているのが血液型占いなのかも知れない。
 「今時の若者は」と言う論法は、洋の東西を問わず一時代を過ごした者が過去を振り返る際に使う定番になっているようだ。だから逆に言うとそうした意見の繰り返しの中に人は歴史を作り上げてきたのかもしれないけれど、やはりそれは思い込みになってしまうのではないだろうか。

 さてもう一人の論者、フリーライターと称する赤木智弘氏の意見である。その意見は比較的私にも分かりやすい形でスタートしている。
 「『若者はバカだ』といわれれば、その通りだと思う。知識、経験、そのどちらも若者世代が中高年より劣るのは仕方がない。しかし、中高年世代だって、かつては上の世代から・・・『バカだ』といわれていたわけで、その意味では『誰でも昔はバカだった』のではないだろうか」は良く分かる話である。

 だが、続く「『若者はバカだ』が・・・若者を社会として育て受け入れる責任を放棄した言い訳として(いるのが)・・・今の日本ではないだろうか」との見解は、若者自身がなすべき努力を他人や社会の訓練不足に押し付ける身勝手な理屈になっているような気がしてならない。そしてそうした訓練を受けられず社会から一人前と認められないことで、「私たちの世代は、死ぬまで上の世代から『バカ』と言われ続けなければならないのか」と悲嘆していることはまさに責任の転嫁でしかない。
 しかも自分自身をそうした若者群に含めていることもさることながら、「(そうした若者を大切にしないことによる)報いはいずれは日本社会も受けることになるだろう」と結論付けていることは、依存体質そのものが余りにもはっきりと表われているような気がして悲しくなる。

 努力がどんな場合にも報われるとは思わない。しかし、多様化と名づけられた選択肢のなかで好き勝手を我が身を委ねてきたのも若者自身ではなかっただろうか。もちろんそうした好き勝手が許されるような好景気が背景にあったのかも知れないけれど、不況になって収入の道が乏しくなってきたとたんに「こんな女に誰がした」みたいな論法をもってきて、しかも「そのつけは日本の将来をダメにする」などとその責任を他者に推しつけるのは、まさに脅迫に名を借りた身勝手な意見である。

 さて三人目のリクルート「R25」元編集長藤井大輔氏の意見はもっと過激である。
 「ついこの間までは・・・利益を上げることだけ考えていれば、人生を渡れた。・・・(ところが今は)自分のおばあちゃんのように、平穏な老後を変えられるのかさえ見えない」は、まさに昔は良かったとの回顧でしかない。しかし、過去が本当にそんな単純なシステムによって平穏な老後に結びついていたと信じているのだろうか。昔も今も「平穏な老後」など絵に描いた餅でしかなかったのが現実ではなかったか。

 こうした理論展開は最初に引用した土井氏と似たようなものだが、彼はそれに加えて(今の若者は)チームで仕事を進めるのは上手。失礼なことは言わないし、細やかな気遣いもできる。・・・(だから)バブル以前、以後の景気の浮沈を身にしみて知っている50代あたりが、『メンター』(指導者、師匠)となって、彼等の美質をうまく吸い上げてくれれば、・・・あっと驚くような未来を見せてくれるかもしれません」と論評を締めくくっているのはどうにもいただけない。

 この理屈はまさに若者自身のギブアップ状態を示している。つまりいいリーダーが引っ張っていってくれないと若者の自力では将来がないと最初から諦めているのである。これでは自分は何にもしなくても、誰かがなんとかしてくれるとの投げ遣りな体質が見え見えであり、依存体質にどっぷりつかっている状態があからさま過ぎるような気がする。こうした考えが論者自身を含めての意見なのかどうかは必ずしも読みきれないけれど、末尾の一行は意見にもなにもなっていないのではないかと私には思える。

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 いつの時代も人は流される。生きていくということは、そうした流れに身を委ねることでもあるからである。明治維新の動乱の中で、日清日露から太平洋戦争への軍国主義の中で、戦後の闇市や復興や窮乏の中で、そしてバブルの流れに身を任せて踊りまくって起業家の群れの中でなどなど。そうした流される中味の是非はともかくとして、どんな時代にだって若者は生きてきたのだし、生き続けてきたはずである。それは生き続けることのなかに自らの人生があるからでもある。

 ならばこれからの時代だって、したたかに若者は生きていくのではないだろうか。そうした流れを文化と呼ぶのか、はたまた文明と呼ぶのか定かではない。だが、そうした若者の生き様が、今の私や、この新聞の論者や、今の政治家や有識者など、いわゆる常識だとか「まとも」だと考えられる「枠」からはみ出すような形をとろうとも、それもまた長く続いてきた若者の一つの生き方なのかも知れないことを私たちは理解してやってもいいのではないだろうか。たとえその行動が若者にとっての天に唾する類のものであったとしても・・・。



                                     2009.5.14    佐々木利夫


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若者はバカになったのか