主としてガン患者に関する場合が多いように思えるけれど、最近は「告知」と並んで「余命宣告」と言う話も聞いたり読んだりすることが多い。どちらかと言うと「告知」は患者本人になされるのに対し、「余命宣告」は本人よりは患者を介助する親族などに向けられた言葉のような気がしているけれど、最近は告知すること自体が多くなってきているから、そうした境界の違いも少しずつ重なってきているのかも知れない。

 こんなテーマが気になったのは、最近自らのガンとの闘いを記した、「がん再発日記・百万回の永訣」(柳原和子、中央公論社)を読んだからである。彼女は昨年の3月、卵管ガンでこの世を去った。1950年生まれ、私より10歳若い57歳の生涯であった。

 こんな言い方は目の前に死を意識している人に言わせるならまさに傲慢かも知れないけれど、命と言うのはどこかとても厄介なものである。何をもって生きていると言えるかは簡単なようでどこかすっきりこないものがある。例えばきりりと冷えた紅葉の山間の露天風呂に首を浮かべて、「あーぁ、生きてるな・・・」と感じることもないではない。その他にだって満腹や家族との平穏など、いわゆる「充実」であることの別表現として「生きている実感」みたいな感じを受けることだってある。
 ただそれは本当に生きていることの実感なのかと問われるなら、必ずしも頷けるとは限らない。それは日常としての充実、つまり生物学的に生きていることが当たり前であると了解した上での理解であって、命そのものの実感とは異質なレベルにある、一種の気分に過ぎないように思えるからである。

 それにしても彼女のガンとの戦いは壮絶である。それは親身にそして正論を述べる医師たちとの戦いの記録でもある。「医者は病気ばかり見ていて患者を見ていない」とするメッセージは、医療をめぐるドラマや物語の定番ではあるけれど、医師と患者の意識の違いというものは避けられない事実としてこの著書にも重くのしかかってきている。

 「それぞれ信念を抱いて治療法を語る医師の言葉はいずれも明晰な筋道と論理で成り立っている。統計と医学的な用語で武装されている。が、どこかで腑に落ちない」(P191)。

 早期発見早期治療は現在でもガン治癒のための常識みたいに言われているけれど、「ガン」と言う言葉の中にはまだまだ、いわゆる「治療することで治る病」と言うようなことでは単純に割り切れないものが含まれている。それは多くのガン患者がガンによって死亡するという事実がそれを裏付けているからでもある。
 しかも彼女が向き合わなければならなかったのは、「ガンになったこと」ではなく、「ガン再発」、そして「再々発」と言う途方もない現実に対してであったからである。

 医療が様々な顔を持つのは、それが命をテーマにすることからきていることであろう。それは「人は必ず死ぬ」という、あまりにも単純な命そのものの定義が一方にあり、もう一つの端には「もしかしたら自然死など現実にはあり得ないのではないか」との半ば呪術的な脅迫が重くのしかかっているからでもあろうか。

 もともと「死」はタブーであったような気がする。それはまさに「神」の領域に属するものであり、人はそこに触れてはならないものとして長く封印してきたのではなかっただろうか。
 そうした封印を開けてしまうのもまた人の宿命だったのかも知れないけれど、それを医者に許した結果が「余命宣告の意味」として我々の前にそびえている。

 病と治療があり、それはエビデンス(科学的根拠・ある治療法が病気や怪我や症状などに効果があることを示す証拠や検証結果のこと)によって結び付けられている。それは確かに医師の個人的な経験や勘に頼らない幅広の調査研究に基づく事実であろう。
 だがその事実は統計によって数値化されたデータでしかない。「ひとりのわたし」としての患者本人の思いとエビデンスとしての事実とはそこで決定的な乖離を見せる。

 発表された論文や過去の同じような症例によれば、この症状の患者の余命は「あと何年、あと何ヶ月」である。そうしたデータに基づいて医師はそうした事実を伝える。伝えられた事実は「死までの時間」である。「死までの時間の長さの宣告」と「死そのものの宣告」とは一体どこが違うのだろうか。
 そもそも「このままではあと半年しか生きられません」なんて、そんなこと誰が決めたんだろうか。誰がそんなことを宣言する権能を与えられていると言うのだろうか。

 宣告する医師の感情の中に、自らが神になったとの意識などまるでないことくらい私にだって理解できる。治療に対する自らの実力と現在の治療水準を科学的事実として伝えたであろうことを理解できないと言うのではない。それでも知らず知らずに医師は自らを神の高みへと置いてしまっているのではないだろうか。なぜなら、彼の宣告には「死までを共に生きること」の意思がまるで含まれていないように思えてならないからである。

 宣告された患者や家族にとって、その宣告の背景にある「説明と同意、インフォームド・コンセント」のなんと空疎なことか。科学的事実としての「死までの長さ」を伝える医師と、「死の宣告」を前になすすべなくすがりつこうとしている患者や家族にとって、そうした科学的事実や「説明と同意」などのなんと無意味なことか。

 同意は恐らく医師から示された治療方針とその危険負担について書かれた文書に「署名しはんこを押す」と言う形でなされることだろう。それが同意と言う意味である。同意なのだから、当然に拒否することも可能である。だから場合によっては、それは同意以上の意味を持っている。つまり同意とは、「治療方針の決定は患者自身が下した」というまぎれもない意思表明でもあるからである。

 「自分の命」に対する自己決定・・・。そのことをもし言葉通りに呼べるのだとしたら、その自己決定のなんと残酷なことか。その同意書の裏には、「何が正しい選択なのか、誰でもいいから教えてくれ」との思いが悲鳴のように閉じ込められているのではないのだろうか。

 私たちは、少なくとも私は「契約」の意味についてこれまで数多く学んできた。時に騙されたり誤解したりする例がないとは言えないだろうけれど、当事者が対等の立場で理解しあった結果を示すのが契約だと学んできたはずである。それが時に聖書におけるような「神との契約」であろうと、はたまたファウストが決断したような「悪魔との契約」であろうとも・・・。

 しかし、余命宣告を受けた患者や家族が、恐らく「〇〇同意書」と書かれているであろう目の前に置かれた治療方針を示した紙片にサインしはんこを押すと言う行為の中に、果たしてどんな意味での説明と同意、そして自己決定の意思が含まれているというのだろうか。

 「百万回の永訣」は第一章(2003.5.15〜10.30)から第五章(2005.2.15〜8.18)までで構成されている。
 人はこんなにも死におびえ、恐れ、僅かな希望にすがり、なんでもないことに傷つき、時にこんな小さなことにも救われるのかを、そしてそうしたゆれ動く心の巾がこんなにも大きいものなのかをしみじみと伝えてくれる一冊であった。

 この本はこんな風に終わる。

 わたしは先生がたの営みに、やはり期待している。
 がん患者の希望は、やはりそこに行きつく。
 人としての、医療。
    ・・・・・
 すべては、これからだ。
    ・・・・・


 その時から2年半彼女は奇跡とも言うべき力で生き延び、そして力尽きた。これは著書のあちこちにちりばめられている彼女の句の一つである。

  
 風光る ひとり ひとりの独りかな(P148)



                                     2009.1.29    佐々木利夫


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余命宣告の意味するもの