衆議院の任期が今年の9月に迫ってきて、そのうえ民主党の党首である小沢一郎氏が西松建設からの匿名政治献金疑惑が発端となって辞任、後任の選挙が先日(5月16日)に行われ鳩山由紀夫氏に決まった。かてて加えて前回の参院選挙で民主党が議席の過半数を占めて、いわゆる衆参でのねじれ国会になっている現状から、政界再編成だの政権奪回だのと選挙をめぐる話題がかまびすしい。

 そうした背景があることに加えて、現在は世界的にも未曾有とも言われている大不況であり、しかもパンデミック寸前までとも言われている新型インフルエンザの流行が国内にも発生し始めていて、国民全部がマスクで顔を覆うような異様な風景が多発している。そんなこんなで国民も評論家も識者も解説者もアナウンサーも、世は挙げて否応なしに政治に向かって「なんでもかんでも、なんとかせい」の大合唱である。日本の先行きはどうなるんだ、景気はどうなるのか、失業者対策は、財政再建は・・・。教育は福祉は医療は老後は・・・、政府への要求は止まるところを知らない。
 国民は何を望んでいるのか、政治に求められているのは何なのか、政治はどこまでやれるのか、やるべきなのか、それを確かめる方法は、手段は・・・。そんな八方塞がりみたいな状況の中で、世論調査が新聞やテレビを賑わしている。

 国民主権だと言われて久しいし、独裁国家ならまだしもそうした言葉に反論するような意見はないだろう。そしてそうした国民の意思が選挙を通じて国政に反映され、行政を通じて国民に反映される、こうした流れもまた否定されることはない。

 だが本当にそうなのだろうかと、ふと思うときがある。そもそも「国民の意思」とは何なのだろうか。そうしてその「国民の意思」はどんな形で私たちが確認できるのだろうか。
 「選挙は民主主義を意味しない。これは私の祖国ビルマ(ミャンマー)では全くの真実だ」とジャーナリストで国民民主連盟(NLD)中央執行委員のウィン・ティン氏は語る(’09.5.17、朝日新聞、私の視点)。同稿によればアメリカ大統領のオバマ氏も同じような意味の発言をしたと伝えている。

 今月の21日から裁判員制度が施行されるなど、国民主権の表われは必ずしも選挙だけに限られるものではないと思うけれど、それでも選挙こそが一番実感できる場であることに違いはなかろう。その選挙さえもが、ミャンマーに代表されるような軍政により歪められている現実以外にも、どこか国民主権の証とは食い違っているような気がしてくる。

 政治家の多くは、いや、全部と言っていいかも知れないが、国民の意思を「民意」と呼び、選挙結果を民意に表れだと主張する。だが「『政局よりも政策』が民意だ」と言う麻生総理の発言は、「私はそう信じている」と言う程度の意味しか含まれていないような気がする。つまり政治家の言う民意とは、「自分の主張に賛成してくれる人の意見」でしかないことは、例えば国会中継やNHKの日曜討論などで、対立する発言者のそれぞれが「民意」を後ろ盾にして自分の考えの正当性を主張していることからも明らかである。

 そうした中で民意のバックデータとして時々世論調査が出てくる(もちろん不利なデータの場合には、「数値の上がり下がりに一喜一憂することなく」と評釈のつくのもまた事実ではあるが)。新聞社、テレビ局、行政などなど、色々な機関が世論調査、つまり民意の調査を行っている。しかし、その多くは結果を割合で示すだけで、調査の対象となった分母(つまり母集団)や調査結果の確実性(統計的な有意性)などのデータや根拠を提示することはない。
 別に私はそうした統計的な手法を報道の中で解説すべきだと主張しているのではない。ただ少なくともそうした民意と称する集団の意見が、民意としての評価に耐えうるだけの基礎データを基になされているのかどうかを、検証できるような形で表示だけはすべきでないかと思っているのである。

 NHKはそれでも時折そうした手法をRDDによったと報じてはいる。RDDとはコンピューターが無作為に発生させた番号に電話して質問する方式である。だがその母集団は千数百件であり、しかも回答割合はいつも60%を多少超える程度でしかない。更に更に、この電話は固定電話を対象にしたものであって携帯電話は含まれていないのである。

 そうしたデータから果たして民意というものがつかめるのだろうか。確かに携帯電話に突然電話されて、「今の麻生内閣をどう思うか」と聞かれたって、家庭でゆっくりくつろいでいるとは限らないのだし、場合によってはお客さんと仕事の話をしている最中もあれば、電車やマイカーで移動中の場合だってあるかも知れないのだから、回答率が固定電話よりも更に低くなるであろうことは否定できない。回答率が低ければそれだけその調査に対する信頼度が揺らぐのもまた事実である。

 だが今の若者の全部は携帯である。場合によっては固定電話を持たないで携帯電話だけ、という人だって結構多いと聞いている。だとすれば、「固定電話のみから世論を探る」という手法は、逆に若者の意見を頭から排除してしまっていることになるのではないだろうか。

 そしてもう一つ。マスコミは常に結果だけを示して解説する。だがどんな質問をしたのか、質問の選択肢としてどんな回答を用意していたのかにはまるで無関心である。例えばある事柄について、単に「どう思いますか」と尋ねるか、それとも「〇〇のような可能性があるとの指摘がありますが、あなたはどう思いますか」と尋ねるかによって回答の種類が違ってくるのではないかと思うのである。こうした「質問の仕方による回答の偏り」はあらゆる質問に内包する危険性でもある。

 しかも、質問が単純であることにも疑問が残る。例えば「麻生内閣をどう思いますか」だって、調査対象者が何をどんなふうに理解して、「大いに魅力がある」、「ある程度魅力がある」、「あまり魅力はない」、「全く魅力がない」、そして「無関心、無回答」などを選択したのかはまるで分からない。
 街頭での調査にも、電話による質問にも、生まれてこの方まるで縁のない私なので、麻生内閣の魅力をどんな意味で尋ねているのか、解答をするまでの時間的名余裕がどの程度あるのか、そして例えば「漢字を読み違えたことには失望したが、定額給付金の決断はよくやったと思う」と考えたとき、そうした場合の回答の選択肢は「好き、嫌い、半分好き」みたいなもの以外にどんなのがあったのかを知ることがまるでできないなど、どこか引っかかるものが残る。

 質問する方としては、選挙は一票なのだから「yes or no」しかないではないかと言うかも知れないが、人の評価や政策に対して単純に「好きか嫌いか」で決められてはかなわないとも思う。
 私はこうした「質問の仕方」、「母集団の不確定さ」、「回答率の低さ」、「回答の巾の選択肢の制限」などの検証なしに、結果としてデータだけが一人歩きしている現状、そして何よりも同じような質問でありながら調査機関によって数値が異なることなどに、民意とは何かを信頼しかねているのである。



                                     2009.5.20    佐々木利夫


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世論調査と民意