もしかしたら私は、これまでの長い人生できちんとした挫折を味わったことなんぞなかったのではないだろうかと思う時がある。「挫折のない人生」なんて言ってしまうと、私の過ごしてきたこれまでが順風満帆だったことを自慢しているように聞こえてしまうかも知れないし、「きちんとした挫折」と言ったところで何をもって「きちんと」なのかの説明もできそうにない。
 もしかしたら単に自分が挫折してしまうほどの力を込めて、何かにぶつかったことがないことを示しているだけのことなのかも知れないからである。

 挫折したことがないと言うのは、見かけ上はとりあえず幸せな人生を示しているように思えるにもかかわらず、その反面どこかで大切な「人生の重さ」と言うか「拠りどころ」、もっとはっきり言うなら「生きていることの中心核」みたいなものをつかみ損なったように捉える風潮が世間には多いのも気になっている。

 もちろん何をもって挫折と言うかはかなり主観的にならざるを得ないだろうし、私にだってこれまでの長い人生で後悔や失敗に落ち込んだ記憶がないではない。
 だがこうした後悔することと挫折とはどこか違うのではないだろうかとの思いもどこかで吹っ切れないままに残っている。挫折とはどこかもっと深いところで感じる「立ち直れないほどの衝撃」、もっと言うなら「嘆きに埋没している自覚」にもつながることではないかと思えるからでもある。

 そうした意味での挫折の経験が、もししかしたら私の人生には欠けていたのかも知れないと、このごろふと感じることがある。こんなふうにあっさり言ってしまうと、まるで挫折を人生におけるスパイスみたいな捉え方をしているようにも聞こえるけれどそう言う意味ではない。

 ただ挫折をバネにして新しい自分へと挑戦し、そして結果としてそうした意気込みが今の自分を作り上げたかのような話しを最近立て続けに聞いたものだから、それはきっと「成就した者のサクセスストーリー」に過ぎないのではないのかとどこかでへそを曲げたくなってしまった。
 挫折した他者に向かって、「その挫折をバネにして頑張れ」と口先で激励することはたやすい。だが本当に人は挫折を乗り越えていけるほど強い存在なのだろうか。乗り越えることのできた成功者の例を表面に出して、「だから頑張れ」と叱咤激励することは、もしかしたら不可能を強いる口先だけの苛酷な要求になっているのではないだろうか。

 もちろんこうした私の人生を「挫折のなかった分だけぬるま湯の人生」と定義づけることも可能ではあろうけれど、逆に「立ち直れないほどの挫折に遭遇することのなかった幸せな人生」と位置づけることだってあながち間違いではないのではないかと思うからである。
 だとすれば、あまりにも安易に挫折と言う言葉の中に閉じこもってしまうことにも抵抗感はあるけれど、結局は自分の自分に対する評価の中にこそ、その人の人生が存在するのだと考えてもいいのではないだろうか。

 私にだって悔しさはあったし、負けず嫌いの感情だって存在した。時に勝手にライバルを見つけて陰ながらの挑戦を試みたことすらあった。褒められてその気になったことも、おだてられて木に登ったことだってなかったとは言えない。そして木から落ちたことも・・・。
 そして時に「俺ってけっこうやるじゃないか」と自惚れたことも、「俺の実力なんてこんなものか」と自己嫌悪に陥ったことも長い人生それなりに味わってきた。

 そうした悔しさや自己嫌悪をあっさり「挫折」と位置づけてしまえばそれまでのことかも知れないけれど、やっぱりどこかで挫折とは心が折れてしまうこと、再起できないほどにも痛みつけられた心を意味しているのではないかと思うのである。

 「挫折」とは弱い心にはいい響きを持つ言葉である。なんでもかんでもそこに押し込めてしまうと、あとは自分で努力しなくても誰か他人が助けてくれるようなそんな響きを持つ言葉である。不景気が巷を駆け巡り、雇用の不安定は先が見えないまでになっている。そうした状況の下ではあるけれど、なぜか「挫折」と言う言葉がそこらじゅうを溢れるばかりに飛び交っているような気がしてならない。

 挫折を心の持ち方の問題だとあっさり片付けるつもりはないけれど、人は思うほど本物の挫折に直面することなど滅多にないのではないかと思うのである。自分の現在を「挫折」だと言ってしまったとたんに、人はその「挫折感」から抜け出すことができなくなってしまうのではないだろうか。そうした意味で私は私のこれまでに挫折を感じたことのないことを、そんなに後悔はしていないのである。

 とは言ってもその背景には私自身の自分に対する躾の問題が大きくからんでいるのかも知れない。挫折するような予感のする高望みにはなるべく挑戦しないことだとか、はたまた失敗の嘆きに可能な限り鈍感でいられるような体質に作り変えるなどなど、「身の丈にあった望み」を超えて暴走することのないような安全弁を身の裡に設定してきたと言えなくもないからである。

 だとすればそうした安全装置は私に対して、「ノーベル賞や芥川賞に輝く私の姿」と言う目標への努力そのものを放棄させたというとんでもない罪深さを秘めていることになる。あぁ、もしかしたら私は天下を取ることができたかも知れないような途方もなく大きな野望を、自らの手で葬ってしまったのかも知れない。

 それでもなぜかそのことを「挫折」と感じることのない大いなる鈍感さを、今の私はたっぷりと持ち合わせているのである。



                                     2009.3.20    佐々木利夫


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挫折の意味するもの