7月始めのNHKテレビで、あわび採りをする老夫婦のドキュメントを放送していた。海女として妻が潜り、夫が妻に結び付けたロープを手繰り寄せる、そんな漁の話題だった。50回潜って15個の成果だった。それを見ていてかつて、帯広税務署に勤務していた頃、管内の広尾町で見た昆布干しの風景を思い出した。やや荒れている海岸での黙々とした作業だった。昆布干しは大人だけの仕事ではない。そこでは子供も含めた家族総出の重労働が続けられていた。

 税務署に勤務していたからそんなふうな感じを抱いたのかも知れないけれど、その昆布干しの作業に「税の公平」とは一体何なのだろうかとの思いをふと重ねてしまったのである。

 租税が中立であることは税の公平とともに重要な要素であると私たちは教えられてきたし、そのことを豪も疑うことなどなかった。もちろんその前提として例えば個人に課税される所得税などでは、その税金の基礎となる「所得」、つまり「儲け」そのものをどうやったらきちんと把握できるかが基本となる。そしてそのために税務職員は公務員としての訓練を受け日々努力を重ねているのである。

 ところで税の中立とは、その所得の発生源泉による差を設けないと言う意味である。賭博や違法金利などのどこか胡散臭い手段で荒稼ぎをしたことによる儲けであろうが、愚直にこつこつと稼いだ結果であろうが、10万円の儲けが事実であるならそれに対して税法はその両者に課税上の差別をしないということである。儲けが10万円あって税率が10%と法律で定められているなら、どんな方法で儲けようとも1万円を税として国に納めなければならないのである。

 それが租税法律主義であり、租税の中立であり、法の正義である。私はそう信じ、長い税界での生活を続けてきた。そのことに何の疑いも抱くことはなかったし、退職後も税理士としての仕事を続けている上でそのことに少しの揺らぎもないと確信している。恐らくそうした考えはこれからも続いていくことだろう。人情や情緒や気分や思い込みなどで税金の額が変わるなど、決して許されてはならないことだと思っているからである。

 でも昆布干しの家族ぐるみで働く姿を見たとき、私は少しだけ気持ちが揺らいだのである。その時の私は税務職員たる公務員である。昆布干しの風景は別の仕事の通りすがりに見ただけで、その漁師宅に調査などで訪問するためではなかった。

 私は現役の頃はもちろん今だって、仕事中はいつも背広にネクタイ姿である。こうしたスタイルが法律で決められているわけではなく、単に「職員は、機構の職員たるにふさわしい服装で勤務しなければならない」とされているに過ぎない。自衛隊員であるとか警察官などとは違って、デスクワークが中心となる私たちには特別に定められたいわゆる「制服」と称するものがない。それならどんな服装や調髪や化粧などで勤務しても勝手なのかと言うと必ずしもそうではなく、結局は「職員としてふさわしい」かどうかが基準とされる。
 そうは言っても何がふさわしい服装かは必ずしもはっきりとしないから、つまるところ「どぶねずみ色」と総称されることが多いけれど、多くの人間にそれなりの安心感を与える地味な背広・ネクタイ姿が定番となる。

 そうやって私たちはいつも背広姿で朝の8時半から午後5時までを勤務する。出張の時も同じである。土曜日は半ドンで日曜や祝日や年末年始の数日は休み、そして年間20日もの有給休暇が認められている。その他にも病気や身内の葬儀などにも休暇が認められている。もちろん残業や休日出勤がないわけではないけれど、それが平板的な公務員の勤務である。

 そんな9時5時勤務の公務員が背広を着て仕事をする。その中にはもちろん納税者宅を訪れての調査もある。だから昆布漁業者に対する税務調査だって当然に仕事の中に含まれることになる。
 私は昆布干しの作業をバスの窓から眺めていた。そして経営者として独立しているであろう彼の家に税務調査に行くような状況をふと想像したのである。帯広市内に住んでいる私だから、朝は一度税務署へ出勤してから出かけるか、場合によっては前日に近くの旅館に泊まってから調査に向かうことだろう。

 そして納税者の家に背広・ネクタイで訪問する。「お早うございます。税務署から所得税の調査で参りました。帳簿や関係書類を見せてください」。雑談などもするだろうけれど、こんな挨拶から調査は始まることだろう。そのことに何の違和感もない。そして仮に申告漏れがあった場合には、法律て決められた額の税金の追加負担を求めることだろう。それが税金の中立であり公平だからである。

 でも朝となく夜となく海を見ながら、場合によって日曜や祝日もないかも知れない家族ぐるみの作業に従事するこの昆布業者に、朝9時から夕方までというネクタイ姿の公務員の対比はどこかそぐわないような気がしたのである。申告漏れが事実であるなら、海千山千の高利貸しの10万円と昆布漁師の10万円との間に税に関しては何の違いもないことを承知の上で、それでもなおどこか気持ちに澱が残るのである。

 この両者にはどこかで「所得の質」みたいなものが違うのではないだろうかと、私の頭はどこかで囁き続けている。そしてその延長に、この漁師の得た儲けと私たち公務員が背広姿で貰う給与ともどこか質的に違うものがあるのではないかとの思いも重なってくるのである。
 だからと言って私たちはそうした差異の思いを仕事の結果に反映させるわけではない。どこかで汗水たらして稼いだ儲けと労働の対価から外れている儲けとは、その苦労の程度に応じてどこか違ってもいいのではないかと思いつつも、そのことが仕事に影響を与えることはない。それがまさに税の中立であり公平だからである。そしてそれが税務職員に要求される国民から負託された基本的な姿勢でもあると思っているからである。

 「知って行わざるは知らざるに同じ」(貝原益軒とも王陽明の語とも言われているがはっきりとは確定できなかった)の格言を知らないではない。また知行合一がそのまま人間の行動に結びつくとは限らないことも承知の上である。
 昆布漁師の姿を見たのはもう数十年も前のことである。それでもそのときにふと抱いた税の公平であるとか税の中立ということへの思いの揺らぎが、この年になるまでいまだに答を出せず心のどこかに引っかかったままになっている。



                                     2009.7.31    佐々木利夫


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