2月も半ばを過ぎて全国の税務署で個人の確定申告書の受付が始まった。テレビで報道されるいつもの相談風景を見るにつけ、そこにかつての私の姿を重ねてしまうのは税務職員として長く過ごしてきたことからくる思いでもある。

 ところで盗みや詐欺などをジョークで職業と呼ぶのならともかく、自分の職業を明らかにするというのは考えて見れば(考えなくたってそうだと思うのだが)極めて当たり前のことであり、隠したり婉曲して表現したりする必要などまるでないはずである。

 私は国家公務員試験(税務職)を受け高校を卒業すると同時に税務署と呼ばれる職業を選択した。当時の高卒向けの公務員試験は、いわゆる公務員全般としての「一般」のほか「税務」と「郵政」の三つに分かれていた。だから「税務職」の受験は最初から税務署への勤務を希望していたことになる。
 財政再建で全国的に有名になっている北海道夕張市で、坑内夫(石炭を掘ったり、坑内機械の修理などの作業員)の息子として生まれた私に、父と同じ道を選ぶ機会がなかったわけではなかったけれど結果として公務員としての道を選んだ。

 私が就職した昭和30年代の始め、転勤の多い公務員は必ずしも人気の高い職種ではなく、むしろ地元で就職できる市役所や銀行の支店、信用金庫、更には国鉄・私鉄の駅での勤務などの人気のほうが高い時代だった。
 大学への道もないではなかったが、そもそも進学の希望者が少なかった上に、自身の能力更には私の家庭の経済状況からしてもほとんど選択肢に入らなかったから、同級生の多くも含めて高卒のままで社会に出ることになった。それが当時のごく当たり前の進路でもあった。

 中学や高校を卒業し、数年にしてクラス会が開かれるのはどんな場合も定番だろう。すぐに結婚した女の子もいたけれど、会社や官庁などなど、親の跡を継いで坑内夫になった者も含め、それぞれが自からの道へと進んでいた。
 クラス会はやはり卒業で散り散りになったそれぞれが「今どこにいるか」の自己紹介から始まる。多くの場合それは「〇〇商店に勤めています。夕張に住んでます」だとか「××信用金庫にいます。△△支店にいます」、「市役所です。」などに続いてそれぞれ自分の現況を話すことになる。

 税務署に勤務していることのどこに抵抗があったのだろうか。クラス会であるとか音楽愛好会や同人誌仲間などなど、職場以外でも人との付き合いはそれなりあったけれど、私はなかなか自分の職業をきちんと自己紹介のなかで発表することはしばらくの間できなかったような気がしている。
 テレビドラマなどで私服の警察官が付き合い始めた女性に、自分の職業を「公務員です」とだけ伝えるのと同じような状況であったと言って良い。

 自らの身分を抵抗なく明らかにすることができるようになるためには、恐らく結婚して子供もできて、そうした状態を分別などとは呼ぶつもりはないけれど、税務職員としての仕事にある種の誇りを持てるようになるまでの長い時間が必要であったような気がする。つまり「誇りを持てるようになるまでの間」と言う表現は、それまでの間は職業に対するどことない気後れみたいな感覚が残っていたということでもある。

 「税吏」、「徴税人」などの言葉は聖書の時代から存在していた。それを領主と呼ぶか君主と呼ぶか、はたまた国王、大統領、なんでもいいけれど、古来から一定の地域を支配し統治していくには当然のこととして武力が必要であった。そうした力による統治を維持していく背景には、その地域に住む住民から安全や保護の見返りとして一定の負担を求めることが至極当然のこととして考えられていたであろう。

 もちろん川や港や峠など隣国への交通の要所を支配し、そこを通過する人や荷物から通行料を集めるなどの方法もあっただろうけれど、貴族といえど生活を維持し支配地を統治していくためには年貢と呼ぼうが小作料と呼ぼうが、名称はとも角として租税じみた収入の確保が不可欠であったからである。

 そうした収入を滞納させることなく確保するために雇われたのが収税人であり、それは同時に確保のための権力を与えられていたその力を示す名称でもあった。。聖書にある「・・・パリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。『なぜあなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。』イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です・・・』・・・」(マタイによる福音書9章11節、12節)からも読み取れるように、聖書に限らず多くの著作なども含めて税に携わる者はその持っている権力の故に、いつの世も憎まれ役として特別視される傾向にある。
 こうしたイメージを税務署に重ねるような視線が世の中にはまだ残っていると、就職した当時の私は感じていたのだろうか。

 「もはや戦後ではない」は1956(昭和31)年の経済白書に載り流行語にもなった言葉だが、私が税務署に入ったのはその2年後のことであった。こうした言葉の存在そのものが、まだ世の中が戦後の尻尾を引きずっていることを示していたのかも知れない。敗戦からまだ10年足らず、国家の立ち直りはまさに国家財政の基盤整備たる税務の働きに大きく頼ることでもあった。そうした税務の立場が、まさに孔子の言う「苛政は虎よりも猛し」につながるものとして国民に、そして税務職員自身にまでイメージ化されていたのかも知れない。なにしろ現に私も税金の徴収を担当する分野に配置され、滞納者の財産を差し押さえたり強制的に公売にかけたりしたこともあったからである。

 税務署の仕事にはこうした滞納に対する整理部門だけでなく、納税額の基礎となる個人の所得であるとか法人の利益が正しく申告されているかどうかを実地に確かめる調査部門もあって多くの税務署の職員はその両方を経験することになる。私もそうした経験に例外ではなかったけれど、それとても納税者にとっては招かれざる職業人であることに違いはなかったかも知れない。
 ともあれ私が自分の職業を、私の職業を知らない人たちに向かって表明することができるようになるまでには相応の時間を必要とした。そしてその表明とても最初はどこか後ろめたさと言うか、尻込みじみた気配を持ちつつであり、ごく当たり前の職業として胸を張って言えるようになるまでには更に時間を必要としたのである。そうした税務署と離れてから既に10年を超え、今は税理士としてこうしてワンルームでひとりささやかに気ままな時間を過ごしている。

 もちろん「私は税理士である」と口にすることに、なんの躊躇も感じたことはない。それだけ世の中が平穏になってきたからなのか、なんにも感じないように私自身が鈍感へと変化してしまったからなのか、はたまた「苛政から納税者を守る」ことに税理士の意義を見出しているからなのか?・・・。
 どれもこれも当たっているようで、当たっていないような、そんな気持ちを抱きつつ今年もまた税務署へ提出する確定申告書の時期が来たことを感じている。それは頼まれた申告書はもとより、私自身の申告書も含めてのことではあるのだが・・・。



                                     2009.2.18    佐々木利夫


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