民主党が8月の衆議院選挙で議員数が過半数を占めて勝利し、参議院はもともと過半数にはやや足りないものの自民党よりは多数を占めて他の政党と組むことで衆参両議院とも多数を占めることになり、これで政権与党としての地位を確立した。

 とは言え選挙で掲げたマニフェストでは、それまでの自民党とはかなり異なる主張を掲げたものだから、その実現に向けて予算編成で四苦八苦している。まあ、言ってみれば、子ども手当てを一人当たり26万円支給するだの、高校までの授業料を無償化するなどの宣言であるとか、更には高齢者医療や福祉や沖縄米軍基地の嘉手納からの移転などについても、かなりおいしい話を掲げたことが逆に重荷になってきていると言うことでもあろうか。しかも昨今の不景気は税収の前代未聞ともいえるような減収が予想されることから、その収支合わせに四苦八苦しているというべきかも知れない。
 そこでこうした事情に、「民主党どうした」との意見が出てくるのは当然のことかも知れない。

 ところでそうした意見について、どうもしたり顔と言うか身勝手な意見の押し付けみたいな風潮が出てきて気になり始めてきた。
 これは先日の新聞に掲載された識者の意見表明である。

  有権者は脱「政党任せ」で(11月7日、朝日新聞、鴨 桃代、全国日本ユニオン会長)と題する意見の中で、私は次の二つの見解がどうにも気になってしまったのである。それはその見解の意見の中核をなす柱であるにもかかわらず、垂れ流しのままに放置されてしまっているのではないかと思えたからである。

 第一点は、「8月の総選挙で民主党が圧勝したのは、民主党のマニフェストが高い評価を受けたためということではなかったと思う。明日の生活の不安の中で、有権者が自公政権に見切りをつけ、より良い社会の希望を民主党に託したということではないか」との前提の根拠が少しも示されていないことである。彼女の論評はこの前提に対して、「そうであれば、・・・」との接続詞をつけただけでいきなり結論なり意見へと進んでいくのである。

 論者は一体どういう事実から、国民が民主党を選択した意思の背景に「マニフェスト」があったのか「自公見切り」があったのかの区別を導き出したのであろうか。論者は何も示していないので、単に論者自身が「私は勝手にそう思う」と言うだけの論拠にしか過ぎないのだろうかとしか思えないのである。だとすれば、「何の証拠もないけれど」であるとか、「私の勝手な思い込みにしか過ぎないけれど」と言った前提を、彼女は自分の下す意見の前に示すべきだったのではないだろうか。
 論者の意見はこの「自公見切り」を基に己の下した結論へと一方的に走り始める。これは片手落ちである。論者は前提として「マニフェスト」か「自公見切りか」を掲げたはずである。だとするなら、この結論に続けてもう一つ、「仮にそうでないとするならば・・・」(つまり選挙結果がマニフェストによるものだとするならば)を前提とした意見についても同じように論者としての見解を述べるべきではないかと思うのである。

 さて第二点の疑問点は抽象的な言いっ放しのままで論者の意見が終わってしまっていることである。論者はこんな風に自分の意見を締めくくる。「自公政権に『ノー』と言った以上、有権者にも責任がある。一緒になって、望ましい社会を自分たちの手で作っていく。そうなってこそ、今回の政権交代は意義を持つ。すべてを政治任せにして、うまくいかなければ批判するだけでは、何も変わらない」

 選挙結果が自公を拒否し民主党に政権を委ねたことは事実である。だが論者は、仮に民主党の政策運営がうまくいかなくても政治批判はするなと主張しているのである。そうした意見を論者が所属する団体からして当然の結果であり、民主党に対する提灯持ちの記事なんだから、と言ってしまえばそれまでのことかも知れない。しかし、新聞を使ったいかにも公平みたいな書き方をしている以上、どこか身勝手過ぎる意見になってしまっていることは免れないのではないだろうか。

 論者の意見は言葉としてはストンと頭に入ってくる。しかし、有権者に対して「一緒になって、望ましい社会を作っていく」ことの中味を具体的に示さないまま抽象的に「文句を言うな」と言うだけでは、我々は果たして何をどんな風に論者が「作っていく」ことを望んでいるのか、まるで伝わらないのではないだろうか。まるで能力のない上司が部下に向かって具体案を示すことなく、「とにかく、うまくやれ」と怒鳴るのと同じような気がしてしまうのである。

 かくして論者は偏った前提だけから導いた結論を、もう一方の前提を無視したまま一方的に主張し、かつ、その意見を有権者に向けて発信する形をとりながら、どんな行動を対象者に求めているのかを示さないまま一方的に意見を締めくくっているのである。つまり、論者はつまるところ何にも言っていないのである。言っているつもりになっているのかも知れないけれど、読んだ者には結局何も伝わってこないのである。



                                     2009.11.20    佐々木利夫


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前提と結論のつながり