ブルカとは、イスラム民族が用いる女性のヴェールの一種である。大きな布で全身を覆い、女性の肌を他人に見せないようにする役割を持つものから、顔の部分だけを隠すものまで種類は多いようだし、ニカブと呼ばれる同様のものもあるらしく、私にはその違いをきちんと理解できていない。
それはともかく、こうした顔だけでなく全身まで覆うような服装がここ数年ヨーロッパなどで論議を呼んでいる。フランス、ベルギーなどで外出時における着用を規制(禁止)する立法が審議されているからである。
さて、こうしたブルカの着用を法制化してまで禁止しようとしている最大の目的は次の二つだと言われている。一つは「治安」、もう一つは「女性の人権」である。
「治安」とは、現在暴力として世界でもっとも問題視されているテロ対策にかかわるものである。つまり全身を覆うような衣装には自爆目的などのために爆弾を隠されていても外から発見することが難しいことや、例えば不法な資金の動きを追求するときに銀行での防犯カメラや行員による本人確認が難しいことなどが挙げられている。
また、「女性の人権」の問題は、女性は男性からブルカの着用が強制されているのでそうした強制を禁止することは女性解放につながるとの言い分である。
さて、こうした禁止の意見に対して人権などを前面に押し出した定番とも言える反対論が出てくる。少し前の新聞にこうした禁止に対する反対論を比較的分かりやすく書いた記事にぶつかったので(2010.7.30、朝日、記者有論「ブルカ禁止法成立へ 治安・人権より票集め策では」、パリ支局員)、そこから話を進めることにしたい。
筆者の言い分は概ねこんなことである。
禁止の根拠・理由 |
実態または根拠? |
反 対 理 由 |
治 安 |
ブルカ着用は人口のほんの一握りだ |
テロ抑止につながるとは思えない |
女性の人権保持(夫からの強制)→女性解放 |
私(筆者)が取材した20代のイスラム教に改宗した仏女性(一人らしい)の意見によれば |
自分の意思で着ていると言っていた
全員が着用を強制されているわけではない |
禁止法案の審議 |
禁止法案は議員の中の一人が反対しただけで、残りは賛成か棄権であった |
大統領選が近づき、経済危機の現状を異邦人攻撃にすりかえようとしている |
そして筆者はこの文章の冒頭に、人は「好きな格好で、外を自由に歩きたいとの思いを秘めて暮らしている」と書いた。つまり服装の自由もまた人間としての尊厳の一つであるとの意味であろう。
私はそのことを否定しようとは思わない。室内にしろ外出時にしろ何を着るか、何をかぶるか、または着ないかかぶらないか、靴や装飾品なども含めて、身につけるつけないなどの選択が例えば日本でもよく言われる「基本的人権」に含まれるであろうことすら否定しようとは思わない。だが、それを完全に個人に委ねられた何者にも制限されない絶対無比の人権なのだと言ってしまってもいいのだろうか。
極論かも知れないけれど、例えば素裸やパンツ一枚で街を歩いたり電車に乗ったりすることはどうだろう。例えば実行可能かどうかは別にして、数メートルもの高さの帽子を被って飛行機に乗り込むことなどはどうだろうか。そうした行為と真っ赤な服を着ることとを同列視してもいいのだろうか。
筆者は具体的にその根拠を示しているわけではないが、「
ブルカの着用者は人口のほんの一握りだ」との主張を仮に正しいデータとして認めてもいい。だがその事実がどうして「
ブルカの着用を禁止してもテロ防止につながるとは思えない」との結論に結びついてしまうのだろうか。確かにテロは男性が犯行者であるケースが多いだろうことを否定はできない。男性にはブルカのような服装がないらしいので、体に爆弾を結びつけて自爆する場合などでも比較的外部から発見しやすいかも知れない。だが私たちは現に女性の自爆テロリストが存在し、その女性の自爆によって子供を含む多数の民間人が犠牲になっている事実もまた様々な報道から知るところである。
それにもかかわらずどうして筆者は「
テロ抑止につながるとは思えない」との結論を出せたのだろうか。ブルカが宗教的にも伝統的にもイスラム社会に根強く浸透していることを否定はしないが、現に体に爆弾を巻きつけた女性による自爆テロが起きている事実をないがしろにすることはできないのではないだろうか。たとえブルカの着用者がその国の人口から比べるなら数千人という僅かな数だったとしても、だからと言ってブルカ着用に便乗したテロリストの存在を否定できる根拠にはなりえないだろう。ブルカ着用の禁止に反対することもまた自由ではあろうけれど、そのことがテロの抑止には効果がないと主張するのであれば、どう言った意味で効果がないのかをもう少し具体的な事実を示して説得すべきではないだろうか。
例えば目視以外による完璧な性能を持つ爆弾探知機が存在しかつ全国的な配備が容易であることや、ブルカ着用者に対する悉皆的な身体検査の徹底などの代替措置を講ずることなどが現実的に採用できるなら、それらを根拠にブルカの着用を認めることはまさに服装の自由の範囲に含まれるだろう。
ところで、筆者の言う女性解放については私は特に意見はない。ブルカ禁止が果たして女性の人権意識の解放につながるかどうかは、むしろ疑問であるようにさえ思えるからでもある。
さて禁止法案のフランスにおける国会審議であるが、その経過を筆者は
「与党議員は一人が反対しただけで大半が賛成票を投じた。普段は政府批判に勇ましい野党の社会党や共産党は沈黙し、数人が賛成に回り、残りは棄権した」と書いている。これはまさにほとんどの議員がブルカ着用の禁止に賛成したと言えるような状態を示している。まさに目の前にある危機に対して自爆テロの禁止こそが急務だとの国民の意思があったのではないかと思うのである。
人が人として生きていくためには、個人も含めて自らの意思がきちんと尊重される社会が必要だとは思う。だがその尊重は無制限な自由ではないとも思っている。日本の憲法も「基本的人権」こそを人であることの基礎においたけれど、それでもその内容をこんなふうに定めたはずである。
憲法13条(個人の尊重と公共の福祉)
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」
一つの制限のどこまでを公共の福祉によるものだと線引きできるかどうかは難しい判断を含んでいると思う。ただそうは言っても、少なくともこのブルカの問題については天秤の片方に「命」、それも「自爆テロによる民間人の死」が吊り下げられていることを忘れてはならないだろう。
筆者の意見は7月中旬のフランス国民議会(下院)における成立を契機としたものだが、この法案は9月15日に上院でも可決され成立したと聞いた(9.15昼のテレビニュース)。筆者の意見が誤りだと言うのではないけれど、現実の危機にどんな方法で向かっていくかの視点が大きく欠けているように思えてならない。
私はこの法制化に賛成であるが、それよりもむしろ外出時のブルカ着用を法律で禁止しなければ維持できない国際社会におけるテロの蔓延に悲嘆するのみである。
2010.9.22 佐々木利夫
【パリ=山口昌子】フランスの法律の違憲審査を行う憲法会議は7日、イスラム教徒女性の全身を覆う衣装、ブルカやニカブの公共の場での着用を禁止する「ブルカ禁止法」が憲法違反に当たらないとの判断を下した。これにより、同法は6カ月の周知期間を経て来春に施行されることになった。
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欧州ではベルギー下院も4月に公共の場での着用を禁止する法案を可決したほか、スペインなどでも禁止の動きが出ている。
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