「石油が枯渇する」、そんな話は私が小さい頃からの世界の常識だった。地球という限られた星を前提にする限り、石油にしろガスにしろ資源として有限の量しか存在しないであろうことは誰もが理解できる常識だった。ただ、「有限の埋蔵量」と言う常識は言葉としては誰もが承認するであろうけれど、それはあくまでも抽象的でしかない。だからあらかじめ全量が把握されていての前提ではないことが、その有限性を甘い評価にしていたことは事実である。

 現にオイルストーンと呼ばれ、まさに石から油を搾り出しすような技術が開発されたり、メタンハイドレードなどと言う海底で半分凍ったような状態で溜まっている天然ガス資源が見つかったりしているからである。そのほかにも人の手の及ばないとされていたような北極や南極、更には千メートルを超える深海油田を開発する技術などが開発されてきていることなどが埋蔵量神話に拍車をかけている。更には知られていなかった油田の発見などもあって、「把握されている埋蔵量」というか「採掘可能な埋蔵量」は「有限の埋蔵量」と言う言葉とは裏腹に増加の傾向さえ見せていた。

 とは言えこうした神話も使い放題の人間の欲望の前にはあっと言う間にその神通力を失い、今や「やっぱり有限の埋蔵量はその通りだった」と認めざるを得なくなってきている。それで原子力だ太陽光だ風力だ、更には波力や地熱や油を作り出す能力のある藻の生産などにまでエネルギー確保の研究が盛んになっている。
 そうした化石燃料としての資源が枯渇していく一方、それを消費することで発生する二酸化炭素が環境汚染と呼ばれるまでに地球を追いやり、今やその発生をなんとか制限できないかと世界中が大騒ぎである。そうは言っても、その大騒ぎとて「自国の経済発展こそ至上命題」とする思いにまでは遠く及ばず、あれもこれもとないものねだりの世界首脳会議みたいな動きがどたばた劇のように演じられている始末である。

 さてそんな折に、電気自動車が話題になってきている。石油を使わず電気で走る車の開発である。日本もそうした車をエコカーと名づけて補助金を出すだの登録などの税金を軽減・免除するなどして、その普及に力を入れている。世界的に産油国が限られていてその埋蔵量にも限界があること、そしてそうした国々の多くで石油をめぐる権益によるものにしろ、はたまた宗教的な対立によるものにしろ、国内のみならず経済大国である列強からも武力・経済力を問わないあの手この手の資源獲得をめぐる紛争が絶えない状況にある。

 石油を巡る世界的な混乱は、国内に石油資源を持たない日本を安定供給という意味でも、騰貴による経済への圧迫と言う意味でも、何とかしなければならない状態に追い込むことになってきている。しかも一方で二酸化炭素排出の規制をめぐる国際合意などを加味すると、石油依存から距離を置く政策は日本のみならず世界にとっても目指さなければならない緊急の課題になってきている。

 その意味で電気自動車の持つ意味を理解できないではない。今までと違い、石油を使わずに車が走ると言うのだから・・・。
 だがそこに私は「チョット待ってくれ」と言いたいのである。エコカーの宣伝に政府による補助や税の減免が謳われることは良しとしよう。しかしそうした中に「二酸化炭素の排出ゼロを掲げ」、そしてそのことがエコカーであることの証明だとしているのはどこか違うのではないだろうかと思えてならないのである。

 確かに電気自動車に二酸化炭素の排出はない。でも本当にそう言い切っていいのだろうか。車体やモーターやタイヤなどのハードの部分の製造には、それなりの二酸化炭素排出を伴うであろうことを言いたいのではない。それはそれで「物造り」と言う分野における二酸化炭素排出の抑制と言うテーマとして別に考慮してもいいだろうと思うからである。
 だとすれば、車を動かすことに関してなら「二酸化炭素排出ゼロは間違いないではないか」と言うかも知れない。それはそうだ。確かにモーターで動く車から二酸化炭素の排出はないだろう。だからと言ってそれを単純に「ゼロ」と呼んでしまっていいのだろうか。

 こうしたゼロ論理には、発電における二酸化炭素の排出が一つも組み込まれていないことがどうにも気になって仕方がないのである。確かに原子力発電が世界中に広まっているし、日本でも同様である。最近、高速増殖炉「もんじゅ」と呼ばれるプルトニュウム型の新しい型の原子力発電の試運転がなされるなど、発電にも石油依存からの脱却が進んでいることを認めないではない。太陽光発電も風力発電も僅かながら浸透してきていることも事実として知らないではない。

 だからそうした意味で電気自動車が「エコ」だと呼ぶのならなんの問題もない。だがエコカーに用いられている「エコ」の用語は決してそう言う意味ではない。単に「電気自動車は二酸化炭素を100%排出せずに走る」ことだけを限定的に取り上げているに過ぎないからである。原子力発電が増えてきていても、日本の発電はまだまだ石油であり、石炭である。二酸化炭素を空中に撒き散らしながらの発電であることには少しの違いもない。

 もし仮に、「電気自動車は二酸化炭素の排出がゼロなのだからエコである」と解釈してもいいのだとしたら、すべての電化製品(中には二酸化炭素を排出するような商品があるのかも知れないので、もし存在しているとしたらご容赦を)は、例外なくエコ製品になるのだと思うのである。テレビからだって、冷蔵庫や洗濯機や掃除機からだって、多くの電化商品から二酸化炭素など発生することはないだろうからである。家電とはまさに電気自動車と同じように二酸化炭素排出ゼロの商品であることに違いはないことになるだろう。

 ならばなぜ、政府も社会も世をあげて「節電」をエコの手段だとして国民に呼びかけ奨励しているのだろうか。それは決して各人の家計を心配してのことではない。無駄を省いて得た金で「国債を買おう」と呼びかけているのでもない。答えはたった一つ、節電が二酸化炭素の排出減につながるとの思いからである。「白熱電球をLEDに取り替えることで電気代がこんなにも節約できます」、「冷蔵庫のドアの開閉はなるべく少なくしよう」、「使わないときの部屋の電灯小まめに消し、テレビもメインスイッチで消して待機電力の節約に努めましょう」などなど、これでもか、これでもかと節電のためのノウハウは止まるところを知らない。それは決してその家庭の家計費負担を軽くしようと考えてのことではないはずである。

 節電は電気の消費量の減少につながり、その減少は結果的に発電に使う石炭や石油の節約になること、そしてそのことが二酸化炭素の排出減に結びつくことを言いたいのである。テレビからの二酸化炭素の排出がゼロであり、そのことを「エコ」だと言いたいのなら、電気自動車も同じであるはずだがそうした意味とはまるで違う理論がここでは用いられているのである。

 裏づけとなるデータを持ち合わせていないので断言はできないのだが、もしかしたらガソリン自動車が10キロ走るのに使う石油の量(より具体的にはその走行で排出するであろう二酸化炭素の量)よりも、電気自動車が同じ距離を走るのに使う電気量(そのための発電に伴って発生するであろう二酸化酸素の量)の方が少ないのかも知れない。もしそうだとするなら、電気自動車の方がエコであることは正しい理屈になるだろう。
 ただその場合でも少なくともエコであるのは「その差」でしかないと思うのである。決して電気自動車が二酸化炭素を排出しないことによる「エコ」なのではないと思うのである。

 その「差でしかないこと」に触れることなく、政府も業界もことさらに「ゼロ=エコ」を声高に宣伝することはどこか間違っているような気がしてならない。「発電には石油や石炭以外にも太陽光や原子力などの二酸化炭素を排出しない燃料がある」と言う意味でエコを使うのだとするなら、それは別に自動車に限るものではなく、二酸化炭素を排出しないすべての電気製品にも共通させていいことだろう。

 そしてこれは私がへそ曲がりだから特にそう思うのかも知れないけれど、世に流布している電気自動車への思い、つまり「ガソリンを使わず電気を使おう。それこそがエコである」は、「間違ったエコ意識への誘導、それも意図的な誘導」に思えてならないのである。



                                     2010.5.14    佐々木利夫


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電気自動車への不思議