私だってタイトルのような言葉を頭から信じているわけではない。むしろそうでないことの方が世の中ずっとずっと多いだろうとすら思っている。いやいやもっと言うなら、「報われる努力」なんぞはそれこそ例外的にしか存在しないだろうことだって、ほぼ確信していると公言してもいいくらいである。

 ただそれでも私たちは、心のどこかでたとえそれがささやかな望みでしかないとしても、「努力は報われる」ことをまるで信仰のように自身のよりどころにしているのではないだろうか。たとえそれがすがりつくような思いだったとしても、信じることの中に希望を託してきたのではなかっただろうか。

 恐らく多くの希望は希望したという事実だけを残したまま、まるで朝日の前の霧のように消えてしまうのかも知れない。また仮にその希望が実現したとしても、有頂天の心に希望したかつての思いなどは跡形もなく消えてしまい、実現した希望はあたかも初めから約束されていた己の勝利でもあるかのように自身の中に君臨してしまうだろう。だから望みなんぞと言うものは、実現しようが実現しまいが「望みのまま」で霧散してしまうのが宿命なのかも知れない。

 そうした希望の持つ現実的な姿を知らないではないけれど、最近のいわゆる「就活」と呼ばれる高校生や大学生などが就職活動に向けて面接の特訓などを受けている姿を見ていると、あまりにも夢を失っているような現実にどこか寂しさを感じてしまった。

 それはそれだけ現在の就職戦線が厳しいことを示しているのかも知れない。採用する側が求人を抑えたり企業に直接的な実利をもらたす人物を求めるようになっているのだから、それに伴って採用される数も制限されたり夢を語るような人物の採用を見送るだろうことを知らないではない。政府も景気回復や雇用の増加のために努力する姿勢を示してはいるけれど、現実的にその効果が目に見える形で表われてこないのだから、卒業予定者が目の前の就職にあせるのは止むを得ないのかも知れない。

 働くことが人間としてのステータスであった時代は終わったのだろうか。その言葉が正義なのかどうかきちんと理解しているわけではないけれど、私の知っている言葉の中に「働かざる者食うべからず」がある。そうした時の「働く」のイメージはどちらかと言うと筋肉労働であり、額に汗することの中に働くことの意味を持たせていたような気がする。
 だからと言ってそうした労働が汗まみれの道路工事からホワイトカラーに代表されるようなワイシャツ姿による営業や経理などのような形に拡大していくことに違和感を抱いたわけではない。それでも「額に汗する」ようなイメージを私はどこか労働の根っこに置いていたような気がしている。

 そうした思いはやがて高度経済社会の発展とともに少しずつ変節していった。それは恐らく労働の意味やそれに伴う報酬の変節を意味した。目的が報酬を得ることにあり、その報酬が自分の望む生活への架け橋になるのなら、手段としての労働の変節など構うところではなくなったのだろう。
 それは一つには「働くこと」が、しかも「額に汗して働くこと」が、豊かさとは無縁の時代になってきたからなのかも知れない。どんなに額に汗して働こうが、それだけで人は豊かになれない時代になった。つまりいつの間にか「汗」が意味を持たないような時代が来てしまったのである。

 私が見る就活の映像は、編集されたテレビの中の虚像かも知れない。だからそうした映像をもとに内定を求めて企業を回る学生の今を断じるのはもしかすると誤りなのかも知れない。それでも私は「御社の企業精神に同調しています」みたいな面接での受け答えがどこか空疎に思えてならない。採用しようと思っている方も採用される側も、そんなことが嘘だと互いに知っているのではないだろうか。

 内定貴族と言う言葉まであるそうである。つまり数社からの内定を持ち悠々自適の状態ある者のことである。そしてその対語として「ない内定」、つまり内定のまるでない者の存在がある。しかも「ない内定」は卒業後も続き、場合によっては非正規労働者、アルバイト、ホームレスなどへと結びついていく例もあると聞く。

 「社会が悪い」などと言う言葉は使いたくないけれど、若者が夢を持てなくなっている時代と言うのはやはりどこか間違っているのであり、そうした社会はやっぱり「悪い社会」なのではないかと思う。
 「だったらどうしろと言うんだ」と開き直られてしまうと我が身の非力に俯くしかないけれど、それでも「努力すれば報われる」ことが信じられる社会でないと、社会そのものに未来はないのではないだろうか。

 全部が全部ではないけれど、今の若者の姿からはどうしても「羽ばたく」だとか「夢見る」ような憧れや高望みみたいな気配を感じることができない。そのことを「時代がそうなんだから」と言ってしまえばそれまでのことかも知れないけれど、若者自身が始めから夢を語ることなく、無理だとか無駄との思いの中に自らを埋没させてしまっている姿は、どこか寂しさを超えて危うさまで感じてしまう。

 多くの努力が報われないままに終るだろうことを否定するわけではないけれど、それでも「努力は叶う」と信じることは若者の特権の一つではなかっただろうか。そうした特権を、今の社会は容赦なく奪ってきた。戦略や戦術を就活の面接の中で練らないことには生き抜いていけない社会、そしてその中のどんな位置に自分を押し込めることができるかをあらかじめ決めなければならない社会、そんな社会に私はどこか納得できないものを感じている。
 もう少しゆったとしていて、いい加減で、おっとりのんびりできる社会、少なくとも半信半疑ながらも「努力が報われることだって世の中にはある」と夢想できるような社会を大人も信じていいのではないだろうか。そんなことでは国際競争力に対処していくことはできない、などと直截的に断じることなしに・・・。

 最近、「新しい公共」への模索が始まっていると聞く。公共と言ってもこれまでのように国や地方に丸投げしたり任せっ切りにしてしまうことを意味しているのではない。「公」と「共」を別々のものとして捉え、いわゆる従来の国や地方を意味する公共に、企業やNPOなどの団体、それに町内会や個人などのボランティアも含めた支援のシステムを新たに構築していこうとの動きである。就活に限らず幼児虐待、貧困ビジネス、医療や介護などなどに見られる現代の姿は、どこか歪んだ方向に進んでいっているような気がする。
 「ゆっくり走ろう北海道」は交通事故防止のキャンペーンで聞いたことがあるけれど、車だけでなく人の生き様にも「ゆっくり」が自分の意思だけでなく他律的な社会のあり方にまで望まれてきているということなのかも知れない。それはもしかしたら「言われなくても分かっている社会」だったはずが、いつの間にか「言われないと分からない社会」にしてしまった私たちに反省を促す風なのかも知れない。



                                     2010.10.8    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



努力は報われる