数年前から夫婦別姓が巷間話題になっており、民主党がこうした制度に賛成していることもあって、昨年の自民党からの政権交代が起きた頃から再び話題に上ることが多くなってきた。これは法的、技術的観点から見るなら、結局は現行規定である「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」(民法750条)をどう改正するかの問題でもある。
これは2ヶ月ほど前の新聞投稿であり投稿者は、
「・・・私は、なぜ今、法律を変えようとするのか分かりません・・・」と夫婦別姓に反対する立場から意見を述べている('09.10.27 朝日新聞、38歳主婦)。それはそれでいいだろう。自分の思う意見を自由に発表することは、最も基本的な人権の一つでもあるからである。
だが投稿者のそう思う意見の根拠がどこか私には理解できないのである。それは投稿者の意見の中に、
「夫婦別姓になれば・・・家族同姓という1世紀余続いた良き日本文化を崩してしまう・・・」との一文が挿入されていたからである。
私は投稿者が結婚、離婚、再婚を繰り返したことに関連して、我が子が「家族だから同じ名字がいい」と言ったことに対して、再婚相手の姓を名乗るかどうかにある種の決断を求めざるを得なかった悩みを批判したいのではない。「同じ名字がいい」と思うのも「使い慣れた今までの名字がいい」と思っても、それはその親子の任意の決定であると思うからである。
ただ投稿者が、「家族同姓を良き日本文化」と断じたのは思い込みに過ぎるのではないかと思ったのである。もちろんどんな意見だってつまるところは思い込みである。「私の意見」と言う意味においてその意見は同時に「私の思い込み」である。確かに現行民法は明治35年に施行されているから、既に100年余を経ている。だからそれを「一世紀余続いた」と表現するのは誤りではないし、民法を受けた戸籍法が婚姻届の受理に当たって「夫婦が称する氏」の届出を要件としたことから(戸籍法74条)、夫婦同姓が長く続いてきたことも事実である。
だがその事実を「良き日本文化」だと決め付けてしまうのは余りにも思い込みが過ぎているのではないだろうか。長く続けられてきた習慣が伝統と呼ばれるにいたるまでにはどんな経過が必要なのか、必ずしも私にきちんと理解できているわけではない。
高校を卒業して税務の職場に入り、始めて「法律」というものを直接に学ぶ機会があった。それは税法と言う仕事のための法律のみではなく、憲法・民法・刑法・商法などといった大きな法律もまた私たちの回りに存在していることを改めて知らされた。そしてその時に学んだのがいわゆる「法源」と呼ばれる概念であった。慣習が慣習法となり、それがどのようにして制定法へと変化していくのかは、そもそも「法」とは何かのテーマでもあった。その理解は未だにどこか曖昧としたままになっているのだが、その過程を単に「長く続く」ことだけに求めるものではないだろう。
そうした意味では100年続いたある制度の存在が、それがいかに法律というものによって規制されたシステムに裏打ちされたものであったとしても、何らかの意味でその社会への定着と浸透を伴うものであることを否定はできないだろう。そして習慣、それも法的に要請された習慣が一つの日本の文化として住む人たちに定着していく過程もまた避けられないのかも知れない。それでもそのことを以ってそうした文化が「良き文化」であるとは言えないのではないだろうか。仮に習慣が文化にまで変節したところで、それが「良き」になることなどないと思うのである。「良き」かどうは、また別の検証方法によって評価されるべきものではないかと私には思えるのである。
「良き文化」という投稿者の思いは、「私もそう思うし、日本人全体にとって良い文化である」ことを人々に強制しょうとしているのではないだろうか。
夫婦別姓の問題は、恐らく日本の家族制度と離れがたく結びついているのだろう。「姓(かばね)」は特定の人に与えることによってその人を「個」として独立させることを意味した。そしてそれはやがて「家」制度と結びつき、「家」の存続が「命」よりも優先するような時代が長く続いた。そうした呪縛から解放されないと、姓の問題はこれからも混迷を続けるだけになってしまうかも知れない。
極端に言うなら「姓」を「個人を特定する記号」にまで昇華してしまわないとこの議論は進んでいかないのかも知れない。私は結婚を同姓を結びつける必要はまるでないのではないかと思っている。二つの人格がそれぞれの姓のままで結婚生活を営むことに何の不自然もないと思うのである。
もちろんそこに一つ問題がないではない。生まれてきた子どもの姓をどうするかである。新生児に「姓」の決定権を持たせることは理論的にも物理的にも不可能だから「名」はこれまでどおりとし、「姓」については私は一時的に出生との直接的な因果関係を持つ「母の姓」を与えてはどうかと思っている。そしてその子が自己決定のできるであろう一位の年齢を迎えたときに、現在の結婚による本籍地の決定が当事者の任意であるように、その子に「自由な姓」(日本文字に制限するか、外国姓まで認めるなどもっとフリーにするかなどの議論はあろうけれど)の決定権を認めていいのではないかと思っているのである。
夫婦別姓が今後どのように論議されていくのかまだ分からないけれど、現状では「選択的夫婦別姓」が有力だとされている。ただどのように論議されていくにしても、「家族は同姓であることこそが良き文化である」と言うような呪縛からどこかで解き放たれないと、この問題には良い解決が見つからないような気がしている。
「俺の名字を名乗らないか」とのプロポーズの言葉に、言う方も、言われる方も、どこかで夢見るような状況の下からでは、夫婦別姓が正しく論議されることは期待できないのではないかと・・・、これまた私の身勝手な思い込みである。
2010.1.5 佐々木利夫
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