つい先日(3.13未明)、札幌市の老人ホームで火災が発生し高齢の入居者8人のうち7人が焼死した。このホームは少人数の老人を預かる、いわゆるグループホームと呼ばれている施設で、このホームでは主として認知症の老人が入居していたと言われている。
 グループホームは北海道に808施設、全国では1万を超えると言われ、一施設当たりの入居者も7~9人と小規模である。それはまた小規模であることが家庭的な雰囲気できめ細かな世話ができることにもつながっていると言うことでもあろう。

 こうした施設の火災で入居者のほとんどが死亡したことから、早速犯人探しがはじまった。それは単にマスコミの報道だけではなかった。恐らくマスコミに発表しなければならないような状況を察したからでもあるのだろうが、行政も同様であった。

 こうした施設は小規模であることもあって、設備などの規制から外れることが多かったようである。この施設も消防庁の発表によれば、「消火器や誘導灯はあり、設備面での消防法違反というのはなかった」、つまりハード面での違法はなかった」とした。更には夜間の当直者の配置基準も守られており、火災報知機と火災通報装置の設置はなかったもののこれは平成22年まで法令で猶予されてるのでこの点にも違反はなかったと言うことである。
 もちろんまだ火災の原因であるとか、避難誘導の適切さ、安全管理の万全さなど未解明な部分も多々あるのでこの施設の経営者が完全に無罪放免となるかは不明ではあるが、少なくとも火災を報道した時点では特に違法な点はなかったようである。

 だが「違反は見当たらない」だけでマスコミが承知するわけではない。なんたって人が何人も死んだのだから、なんとしてでも犯人を探さなければニュースの起承転結の落ち着きが悪い。そこで飛びついたのが市役所や消防が発表した手続き違反の情報である。この施設は一般の住宅を改造して老人ホームにしたものだそうである。こうした建物の改造に当たってはその旨を市役所に届出しなければならないのだそうである。そして消防には年に一回消防に関する定期点検の報告もしなければならないのだそうである。そうした届出がこの施設からは提出されていなかったのだそうである。

 私はなんでもかんでも犯人を見つけたがるマスコミの姿勢にはどこか勇み足があるような気がしている。とは言え、違法があったことは事実なのだから、ことさらに取り上げるような姿勢はともかく無視したり妥協したりすることは間違いだろうし違反をした経営者の行動は非難されても仕方がないことだろうと思う。そのことを理由として警察の捜索が経営者の自宅にまで及んだことも認めることにしよう。

 だが、だがである。ここで報道が止まってしまうことにどこか片手落ちと言うか、中途半端であるような気がしてならないのである。報道の姿勢もそうだけれど、警察の捜査の仕方も同じように片手落ちになっているのではないかと思えるからである。

 経営者が市役所や消防に必要な手続きを怠っていた、そのことが違法であるとして警察の捜索を受ける。そのことを多少行き過ぎた犯人探しになっているような気のしないでもないけれど、とりあえず違法の疑いがあるのだからあえてとやかくは言うまい。

 それではそうした違法を放置したままにしていた市役所や消防の責任はどうなのだろうか。まるで責任がないのだろうか。こうしたケースはこの火災にからんだ事件だけではない。食中毒でも食品偽装でも、更には幼児虐待などでも、管轄する行政はこぞって施設や商店や保護者などの違法をあげつらう。「加害者はこんなにも悪いことをしていたのです」、「こんなにもきちんとやりなさいと命令していたのに彼等は従わなかったのです」などなど、行政は記者会見などを開いていわゆる犯人の違法を非難する。そのことはいいだろう。それだけの悪いことをしていたのだし、まさに加害者が一番悪いには違いないのだから、そこを責めるのに何の問題もないと思う。
 しかしそこで終ってしまっていいのだろうか。知っていてなんにもしなかった行政は、例えば警察の捜索を受けたり社会的に糾弾されることはないのだろうか。なくて当たり前なのだろうか。

 確かに欠陥を見過ごした消防も幼児虐待を見抜けなかった福祉関係者、食中毒を見逃した保健所など、そしてそれらを含めた様々な行政が「限られた予算と人員、そして法定された権限の中ではそこまで手が回らない」と主張する。そうした行動を否定はすまい。
 貧困ビジネスと言う新しい言葉が最近聞かれるようになってきた。老人の細々とした年金や、生活保護者の僅かな給付金を狙って、マチ金やアパート賃貸や老人ホームなどの業者がむしりとるような行為を重ねて収益を上げている実態を示した言葉らしい。だが、そうした実態を知りながら予算や権限を理由に手をこまねいている行政の言い訳を、私たちはそのまま認めてしまっていいのだろうか。

 火災を起こした者や老人の年金を吸い上げるような者たちを糾弾するのは当然のことである。だがそのことと「今後十分に対処します」と言うだけで、同じような事例がその後も依然として発生し続けている行政の対応をそのままにしている体制にもまた、どこか苛立ちを覚えるのである。火災で人が死んだのである。生活保護費を取り上げられた老人が狭いアパートの一室に押し込められて食事も満足に与えられず寒さに震えているのである。そしてその事実を行政は知っているのである。

 そうしたことを予算不足や法令の不備に委ねてしまってはいけないのではないだろうか。もちろん日本は法治国家である。法律なくして税金の徴収も刑罰を課すことも許されないことは当然である。だとすれば、予算がないことや法律による規制や罰則が不備によって同じような事例が何度も繰り返されることは、まさに法律や条令の制定を怠った国や地方の責任になるのではないのだろうか。

 私はテレビカメラの前で担当者が、「今後指導を徹底し再発防止に努めます」と頭を下げるだけで終らせてしまっていいものではないと思うのである。法律や条令の不備によって人が死んだのだとすれば、それはそんな制度を黙認していた行政による犯罪ではないのだろうか。犯人を捜すことが本来の目的でないことは分かっている。それで死んだ人が報われるわけではないのだから。だからと言って頭を下げるだけで批判の風が通り過ぎていくの待っているだけのような対応からでは解決への道筋なんぞどうしても見えてこないように思えてならない。今やそうした不作為や怠慢などに漫然としている行政や行政のスタッフに対しても刑事罰を課すようなシステムが求められる時代が来ているのではないだろうか。

 こうした考えは既に基本的人権に関する憲法裁判などで、最高裁も義務規定ではなく宣言(つまりプログラム規定)だとして否定的に解していることと矛盾するであろうことを分からないではない。新しい犯人を作ることが正義だとも思わない。そうした思いはむしろ非常識な偏った考えだとすら感じている。
 だがそれでもしかし、やる気のない、そしてその気のない「再発防止に努めます」が繰り返され続ける現状に、どこかで歯止めをしなければならない時代が来ているのではないかと感じているのである。なんたって、ことは人の命なのだから・・・。

 これまで裁判所への起訴は検察官のみの専権事項だった。それが昨年の法改正で市民で構成される検察審査会の権限が強化され、審査会で起訴相当が二度決議されると弁護士が検察側となって裁判が開かれるシステムが採用されることになった。
 この制度は11人が亡くなった兵庫県明石市の歩道橋事故(2001年)に始めて適用され、昨日(3.26)、5年前のJR宝塚線(福知山線)の脱線事故をめぐって、神戸第一検察審査会がJR西日本の歴代社長3人強制的に起訴すべきだと二度の議決をした(3.27、朝日新聞)。国民参加の司法制度が司法そのものを変えつつある一つの表れでもあろう。

 今回の火災は夜勤のスタッフが入居老人のおむつ交換をしているときに発生したと言われている。焼け跡の無残な建物、火傷で入院していると伝えられたスタッフの状況、生き残った入居者のみすぼらしい姿などと、制服や背広などのきちんとした身なりで老人ホームやその経営者の違法性を記者発表する行政の姿とはあまりにも大きなギャップを示している。そしてどこか違法性をあげつらう行政は、その違法性の影に隠れて「私どもには少しも責任はありません」かのような顔をしているように思えてならなかったし、マスコミの報道もそこで止まってしまっていることにどこか中途半端さを感じてならなかったのである。

 行政にも刑事罰を・・・、私のこうした意見が暴論であることは分かっているけれど、それでも老人ホームの火災と消防や市役所の対応との間には、どこか埋めるに埋められない断絶が感じられてならなかったのである。「犯人は一人じゃない」、「もっと巨悪が平穏な顔つきで闊歩している」、しかもその重大性に加害者自身がまるで気づいていない、そんな気がしてならないのである。



                                     2010.3.27    佐々木利夫


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中途半端な犯人探し