実は日本人は金のために働いているとの気持ちを持ちながらも、決してそれを口にすることはない。しかもそれこそが日本人の真面目な姿であると思い込んでいるような節がある。そうした気持ちは私自身にもあり、江戸っ子の粋なセリフだと言われている「宵越しの金は持たねえ」に通じる一種の見栄みたいな思いがどこかに潜んでいる。
そんな私にこんな新聞記事が飛び込んできて、思わず我が身が恥ずかしくなってしまった。それはアメリカの絵本作家で園芸家であるターシャ・テューダがテレビのインタビュアーの
「なぜ、絵本を描くのですか」の質問に答えたというこんな一言であった。
「
それは、お金がほしいからよ。はたらいてもらったお金で球根を買って芳園に植える」(2010.9.19、朝日新聞、画家 安野光雅、本を開けば(3)「文語を口語にするのは難しい」から引用)。
その一言はあまりにも素直で当たり前で、その分だけどこかで私は「やられた」と思ってしまった。日本人は(もしかしたら外国人もそうかも知れないけれど)、お金についてなかなかこんな風にさらりとは言えないだろうと思ったからである。
テレビが家庭の隅々にまで浸透してきて、それにつれてインタビューみたいな番組も身近になってきた。台風でも交通事故でも火事や窃盗事件などでも、いたるところいわゆる隣近所の住民みたいな人たちまで数多く番組に評論じみて登場する時代になった。そのほか事件でない、趣味であるとか買い物みたいな番組にまで駆り出されてカメラに向かって一言を話す人たちの姿も多い。
そしてそうした番組に出てくる人の全部と言ってもいいほどが、「いかにも正論」というか番組の意図に迎合するような発言を繰り返すのがどうも気になってしまう。
農家が農作業の苦労を語る。その時の農業の目的は、恐らく自らの生活の維持が第一であろうにもかかわらず「このおいしい作物を多くの人に味わってもらいたいから」としか発言せず、たくさん売れてお金が一杯入ってくることへの望みなどはどこかへすっ飛んでしまっている。それは農家がそんなことを言わなかったのか、それとも番組にふさわしくないとしてテレビ局が編集でカットしてしまったのか、その辺のことは私には分からない。
デパートのお中元商戦でも、航空会社の宣伝でも、少なくとも営業としての活動では基本的には売上の増加やそれに連なる利益の増加、そして自らの給料や地位の向上などを目指しているはずなのに、「お客様の利便」だとか「より良い商品」などと言った面だけが強調され、儲けることなどはまるで出てこない。
私はそうした言い方がどうにも嘘っぽく感じられて仕方がない。「お客様に幸せを届ける」ことが営業として間違っていると言いたいのではない。「いい商品を安く提供したい」ことだって誤りだとは思わない。
ただ、そうしたメッセージを通じて「適正な利潤を得たい」こともきちんと添えないと、そうした正論が嘘になってしまうような気がするからである。
「農家は、国から金をもらうから米や野菜を作るのではない。作ったものを食べた人が『おいしかった』と喜ぶのを見たいからだ」(自民党 森山裕 衆議院議員、2010.11.13、朝日新聞、記者有論、「TPPの『情と理』『説得』が政権浮沈の鍵」からの孫引き)。今朝の新聞記事である。彼は本当にこんなふうに思っているのだろうか。一言半句をとらえて全体を評するのは間違いだとは思うけれど、私には農家が純粋にこんな思いだけを抱いて農業に従事しているとは到底思えない。
翻って私自身を考えてみると、これまでどこかで「仕事は給料を貰うための手段」と考えてきたような気がしている。だからと言ってそのために仕事をないがしろにしたり、軽く見たり、いやいやながらにやってきたわけではない。自分なりに頑張ったつもりだし、仕事はけっこう楽しかったとも思っている。ただ、それでも仕事と自分自身の生活とは可能な限り区分したいと思っていたことは事実であった。
それは決して働くことを金のための手段として軽視していたわけではない。働くことと自分自身とをうまく両立できたかどうか、必ずしもきちんとした答を持っているわけではないけれど、それでもそれなり満足できる人生を過ごせてきたのではないかと思っている。
金がすべてではないけれど、ほどほどの金もまた人生にとって必要である。現実は金だけが人生みたいな拝金主義のはびこる世の中になっているようにも思えるが、それに反発するあまり「金儲け」をどこかで軽蔑するような風潮にもついていけないものを感じている。
だから先に引用したターシャのメッセージのように、お金の問題をこんなにもさらりと言いのけるだけの力が私にも、政治家にも、社会の多くの人たちにもないことにどこか悔しいような気がして、だから「やられた」と感じたのかも知れない。
2010.11.13 佐々木利夫
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