人が人を好きになるってことは、時にとても厄介なことだとは思うけれど、だからこそ人が人らしく生きていけることなのかも知れないと思うことも事実である。それでも「どうして人は人を好きになるのだろうか」などと考え始めると、どこか行き場のない混乱へとはまりそうな気配さえしてくる。
さまざまな形における「好き」なり「嫌い」があるだろうから、一つのパターンのみで論ずるのは間違いのもとになるかも知れない。それでもあえて誤解を恐れずに言ってしまうなら、その背景に「二つの性」の存在を離れることはできないだろうと思う。それは幼稚園児の恋心を巡るものから更には老いらくの恋などと呼ばれるものまで多岐にわたるとは思うけれど、「男と女」のテーマとして考えることが一番広範に「好きになること」を捉えることになるのではないだろうか。
そうした「男と女」のテーマを仮に「オスとメス」と言い換えてしまえるなら、それはまさに生殖と結びつくことになりそのまま人類から生物へと範囲を広げていけることになる。
性を生殖と結び付けてしまうと、「好き」の様相はがらりとそのイメージを変えていく。生殖とはまさに自己の子孫を残すという意味においてのみ存在するシステムになってしまうからである。「自分の遺伝子をどんな手段をとろうとも残していかなければならない」、そうした本能としての命令がオスがメスを追いかけ、メスがオスを受け入れたり拒否したりする行動へと駆り立てるのだと思うからである。
もちろんそうしたオスメスとして進化する前に、単細胞増殖であるとかメスだけによる単独生殖などがあったことは違いないだろう。だが少なくとも地球の生命は激変する環境に対応するために有性生殖の道を選んだ。「より良い遺伝子」とはまさに環境の変化を超えて種を繁栄させることの象徴でもあるからである。
だが人類はそこから離脱した。それが「好き」になることにつながった。互いの持つ遺伝子の優劣を実態的に見極めることは難しいだろうから、それを相手の外見から推測する方向へと向かったであろうことは容易に理解できる。それが様々な求愛のための行動や色や形などの外見へと結びついた。「子孫によって生き延びよ」の命令は、種を保存するためには何にも増して絶対であっただろう。それにもかかわらず、人はそこから少し離れて「心」を持つことになってしまった。心で種を維持すべき相手を選択する方向へと向かってしまったのである。
それはまさに人を人たらしめる方向ではあっただろうけれど、それは逆に種の保存とはまるで異なる方向へも人類を誘うことになってしまったのではないだろうか。本来オスメスとして優秀な子孫の継続を目的とした配偶者選びの行為、つまり交尾や出産と言う方向から、人類は「こころ」の作用を仲介させることでそこから乖離させる場面を産みだしてしまったことである。
その乖離から人は「愛」であるとか「妬み」などと言った心の作用を生み出し、更に例えば文学、例えば音楽、そして戦いなどと言った壮大なドラマを新たに創造するようになっていった。
「あなただけが生甲斐」だとか、「あなたなしでは生きていけない」などは、演歌もどきも言葉になるかも知れないけれど、こうした気持ちなり意思は時に世界や歴史を動かすことにもつながっていったのである。つまり人が人を好きになることの中には大なり小なりこうした感情が埋もれているのであり、それはまた人間関係を一層複雑にすることへもつながることになったのである。
こうした感情は、例えば結婚する相手とは運命的に決定されているようないわゆる「赤い糸」のような伝説を生み出すもとにもなった。だが考えてみるとこうした決定論はとても不自然である。それは「赤い糸」の運命が同時代の同じような地域なり集団に限定された一定の範囲内の一組の男女間に存在すること自体が不自然であり、事実としてある人を好きになったとしてもやがて「好きでなくなる」ことだって起きてしまうことも起きるからである。少なくとも「運命として好きになった」のではなく、むしろ子孫を作ることのできる能力にまで成熟した男女間にならば誰でもいい、つまりそこには背景として子孫を残すと言う遺伝的な命令があるだけなのだと割り切ってしまうことのほうがより理解しやすいように思えるからである。
それは例えば互いの間に介在する時間であるとか、好きになった相手のちょっとした仕草だとか、時には好きになったこと自体が誤解だったかも知れないと思ってしまうことなど、様々な原因があることだろうが、つまり「好きになる」ことが決定論では解決できない場面の発生を生み出すことがあるからである。「『好き』が終わる」現実を人は様々な場面で知るようになったからでもある。
動物ではほとんどあらゆる種がオスがメスに対して求愛の行動をとり、メスがそれを承認するかどうかによって配偶関係が成立する。そうした行動の目的はまさしく自らの遺伝子を子孫に残すためだけにある。そうした求愛の姿の中には、例えば踊りがうまいだとか、きらびやかな装飾用の羽やたてがみを身につけるなど、更にはもっと現実的に子育てのための巣作りの上手さなどなど、多様な手段を見ることができるけれど、たった一つ「生殖から離れた行動は皆無」であることだは間違いのない事実である。
人はいつの間にか生殖から離れて性差の関係を持つようになった。恐らく最初は「種の保存」の手段として子育てから始まりやがて家族や集落などの集団による個体や生活の維持へと進んできたのだろうけれど、多くの動物がそこまでの進化に止まったのに対し、人はそれを超えた。
卵を生むだけで良しとする動物もいれば、子が独り立ちできるようになるまで育てる動物もいる。時には集団を作って種としての保存や繁栄を図る例もあるだろう。それでも動物はそこで親子を切断した。それはメスが次の繁殖期を迎えるまでに、先に産んだ我が子との決別、もしかしたら親子関係をも含んだ決別を迎えることでもある。
人もそれらと何ら変わるとなき動物である。人を好きになる心の動きを、「運命だ」とか「赤い糸だ」みたいな決定論に委ねるよりは、むしろそうした錯覚を起こさせるほどにも生殖への本能は強いものなのだと理解した方が正しいのではないだろうか。なんだかんだとそうした感情をデコレートして説明付けるよりは、動物における発情期と同じような一過性の感情の起伏だと割り切ってしまったほうがすんなりと理解できるような気がしている。
かくして人の性差は生殖から乖離した説明付けを加えることによって様々なドラマを生むことになったが、一方において人間関係を一層複雑なものにしてしまった。それは「人が人を好きになる」ことと同じくらいに「人が人を嫌いになる」ことだったからであり、「好きだったのに嫌いになった」り、相対する二つの感情が互いに変化し食い違うことなど当たり前に起きる現象でもあったからである。そしてこの文書の冒頭に戻ってしまうことになるけれど、それが時にとても厄介なことでもある。そんな混乱した中で人は戸惑いながら生きているのだし、これからも生き続けていくのだろう。だからそうした混乱を否定するつもりはないけれど、人生とはとにもかくにも「とにかく厄介なもの」なのである。
2010.7.24 佐々木利夫
トップページ ひとり言 気まぐれ写真館 詩のページ