もう一ヶ月以上も前のテレビ番組だけれど、リトアニアの礼拝堂で聖母像を参拝する人々の番組を見た(10.26、NHK、22時〜)。まさに老若男女、ごった返すような人々の群れが、一人の例外もなく膝まづいて祈っていた。場所が礼拝堂なのだし、人々は祈るためにここへ集まってきているのだろうから、そうした人たちの全員が熱心に祈っていたところで何の不思議もないだろう。

 だがその祈りの姿を見て、日本にはどうして「祈り」が乏しいのだろうかとしみじみと感じてしまった。クリスマスが終わって、街は静かになった。ほんの少し前まで、テレビもラジオも、街頭に流れる音楽もクリスマス一色だった。もちろんそれには年末商戦としての意味もあっただろう。クリスマスから年末にかけては、商店にとっての掻き入れ時だからでもあるからである。

 それでもクリスマスが終わったとたん、どうしてこんなにも街から音楽が消えてしまったのだろうかと不思議に感じる。クリスマスに関連した曲がどれほどあるのか私には想像もつかないけれど、数千曲を遥かに超えているかも知れない。クリスマスとは「キリストへのミサ」である。だからそれは単にジングルベルやホワイトクリスマスだけではない。ミサ曲、カンタータ、オラトリオなどなど、キリストに係わる宗教曲なども含めたら「数え切れないほど」と言っていいくらい宗教に関する曲は存在しているのかも知れない。

 そうした状況に対して、日本の宗教曲のなんと貧弱なことか。坊主のお経や神主の祝詞などを音楽と呼んでいいのかどうか分からないが、少なくとも普通の日本人が「何らかの行事に当たってお経を口ずさむ」だとか「祝詞や神楽を舞い詠う」なんてことは、地方に残されている僅かな伝承の祭りなど以外にはまるで記憶がない。

 クリスマスも正月も、明日からの復活を祈る冬至の祭りから来ていると聞いたことがあるけれど、恐らく正月は日本人にとって最大の祭りであろう。にもかかわらず、私は「正月の歌」をほとんど知らない。テレビでもラジオでも、僅かに「もういくつ寝るとお正月・・・」くらいを除いて聞くことはないような気がする。正月が宗教行事だと決め付けるわけではないが、もちろんそれは私が知らないというだけで他にもきっと正月に関する曲はいくつかあることだろう。だがそれとても「いくつかある」にしか過ぎないのではないだろうか。クリスマス曲に比べてだってゼロに近いような気がするし、ましてや「日本の宗教曲」なんてレベルで捉えたら皆無と言ってもいいほどの少なさではないだろうか。

 だからと言って日本人に祈りがないとは思わないけれど、「祈り」に対する姿勢が例えばキリスト教やイスラム教などと比べて日本人はまるで異質であるような気がしている。
 日本人の宗教観を単に音楽の面からのみ捉えるのは片手落ちになるだろう。それは分かる。だが音楽の数の多寡は、その曲に対する民衆のその宗教に対する信頼そのものを示しているのではないのだろうか。もちろん日本にだって宗教曲は存在しているだろう。私自身興味を持って聞くとは言えないのだが、武満徹であるとか黛敏郎、團伊玖磨などに宗教曲らしき曲名を聞いたことがあるくらいで、多くの人の間に神や仏に関する音楽が宗教曲として普及しているとはどうしても思えないのである。

 日本人の持つ宗教観について私はそんなに嫌いではない。キリスト教やイスラム教などを含むほとんどの宗教に比べて、どちらかと言うと信仰への浸透性が希薄であることは否めないものの、そうした希薄さが逆にあらゆる宗教を取り込んでしまう日本人の宗教観を形作っているとも言えるからである。「神」を唯一とし排他性を基本に据える多くの宗教は、その性格ゆえに他民族であるとか他の宗教、更には同一の宗教内にあっても宗派や儀式や慣例の差異にまで排他性を拡大するようになっているなど、その狭隘性にいささかうんざりすることがあるからである。

 それに対して日本人の宗教は、あらゆる神を許容し融合しようとする。それはまさに一つ一つの神に対する希薄さの現われでもあるとは思うけれど、別の表現で言えば対立を避けて相手との対峙を回避すると言う処世の姿でもある。そんなにきちんと宗教を理解しているわけではないけれど、私は日本にはいわゆる宗教対立などと言った場面はなかったような気がしている。もちろん例えば仏教でも宗派間の対立なり紛争が過去になかったとは言わないけれど、それが地域間の対立であるとか紛争、血を血で洗う抗争などにまで発展した例は極めて少なかったのではないだろうか。

 まあ言ってみれば、正月や結婚式は神様に任せ、恋人や我が子などとはクリスマスを楽しみ、葬式は仏様に委ねるような日本人の宗教観は、別の意味で見るならば無節操、無定見の謗りを免れないかも知れないけれど、宗教対立、宗派対立が対立者を抹殺してしまうまで続けるような思想もまた無節操のような気がしている。

 平和が声高く叫ばれている。平和の叫びとは、そのまま平和でない状態が世界から消えていないことを示している。そしてその多くが民族紛争であり、貧困が背景にあるのかも知れないけれど、もっとはっきりしているのは宗教的な対立にあるような気がしている。そう言う意味では、対立を避け妥協に活路を見出す日本人の宗教観は、多くの紛争の解決に寄与することができるような気がしないでもない。

 それにしても日本人の生活には「祈り」が少なすぎる。「祈りなどまるでない」と言ってもいいほどにも少ない。クリスマス、ラジオはこぞってクリスマス曲を流していた。私もその中にあって、通勤途中のラジオからのミサ曲やレクイエムなどクラッシック曲を聞く機会が多かった。そしてその背景に世界中に散らばっている作曲した人、演奏する人、そしてそれを聞く人の多様さを改めて思い起こしたのである。
 世界の各地でクリスマスに教会へ出かけ、そして神に祈る人がどれほどいるのか私には分からないけれど、恐らくはプレゼントに喜ぶ家庭が存在している程度を超えるくらいには存在しているのではないだろうか。そして日本ではキリスト教信者と言われるごく恐らく限られた小数以外にはまるで無関係であろうことも。

 昨年の7月22日、インド西海岸から日本を経て太平洋上タヒチの東にいたる壮大な天体ショー、皆既日食が起きた。インドのヒンズー教では日食は悪魔が神である太陽を飲み込む不吉な現象だと信じられているようである。当日、ガンジス川は真っ暗に浸食された太陽の復活を祈る50万人以上とも言われる人々の群れで溢れていた。ブータンの仏教では日食は吉兆とされ、それを喜ぶ人々がいた。それでもここにも祈りの姿があった。

 そうした光景をテレビで見ていて、私には日食を科学的現象だと理解して世界各地の「皆既日食を楽しもうツアー」などへ重いカメラを抱えて参加している日本人の姿にどこか心もとないものを感じてしまったのである。日本人にだって皆既日食の黒い太陽は一種の畏怖の念を与えたかも知れないけれど、歓声をあげている人々の姿からは祈りの気持ちを少しも感じることはできなかったのである。そうした日本人ツアー客の姿よりも、悪魔を信じ太陽の復活を祈る人々が多数存在する社会のほうが寧ろ、途方もなく健全であるかような気がしてならなかったのである。

 今年も初詣に各地の神社へと押し寄せる混雑風景がテレビで中継されていた。人数の多寡はともかく、恐らく日本中のほとんどの神社へと多くの参詣人たちが鳥居をくぐりお賽銭を投げ入れたことだろう。「家内安全」、「商売繁盛」、「高校・大学合格祈願」などなど、そうした願いもまた祈りの一種だと言っていいのかも知れない。だがそれを信仰による祈りの姿だとは私には到底思えないのである。そこからは神を信じ、祈りの基本として存在するであろう「信仰へのひたむきさ」が少しも伝わってこないからである。



                                     2010.01.03    佐々木利夫


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