テレビはどこもかしもカナダのバンクーバー冬季オリンピック一色で、相も変わらず開幕前のメダル宣言などどこ吹く風と敗北ばかりが続く有様である。もともとスポーツ嫌いの私にとってはそうした番組をかいくぐるようにしてスポーツ以外のチャンネルを探しているのだが、それでもスイッチを切らないで見続けているのはどこかでテレビ社会に毒されているからなのかも知れない。そうした抜け穴探しの中でも比較的安心して見ていられるのがNHK教育テレビででもあろうか。例によって外国語講座だの幼児向け番組などが多いけれど、それでも興味のないスポーツを見るよりは見応えがあると言うものである。

 さてそんな無責任な視聴の中での無責任な発言である。それほど思索的に考えないままに見ていることもあって、放送日時などを記録していないのでここに引用することはできないけれど、最近見た中に家庭菜園を支援する番組と、小学生向けに森林を育てることの意味を取り上げた番組があり、その構成にふと引っかかるものを感じてしまった。

 家庭菜園の番組は何かの野菜の種を播き、それが一斉に芽吹いてきたときに「3センチ間隔で間引きしましょう」という内容が含まれていた。またもう一つは子供たち数人が近くの山へ出かけ、そこで木を切り倒している人に向かって、「木を大切にと言われているのにどうして伐っているのですか」と話しかけると言う内容であった。それは共に一種の間引きをテーマとしたもので、野菜は立派な収穫が得られるようにであり、林では地面まで日光が届いて残された木の生育が良くなるようにというものであった。
 そのことは良く分かる。野菜にしても植林にしても、密植が全体に対して日照や栄養の不足などを招いてしまい、結果として収穫であるとか成木の利用などに当たって望むような成果を得られなくなると言う理屈であり、それ自体矛盾なく理解できることだからである。

 私はそうした番組の構成が疑問だと言うのではない。この二つの番組ともその必要性や目的を親切に解説していたし、そうした意味は菜園を楽しんでいる大人にも間伐を見ている小学生たちにもきちんと伝わっていたように思える。つまりそれは、視聴者に対しても目的と意味の納得が得られたと言うことでもある。そこのところに私自身も何の疑問を抱くことはなかった。目的とその手段としての間引きが、生育と言う一つの完結したシステムになっていることに私自身も納得できたからである。
 しかし私の疑問は「そうした納得」で番組が完結してしまっていることにあった。間引きされてしまった多くの芽、間伐されて地面に横たわる木々にも、それぞれが一つの命を持っていることにきちんと触れるのでなければ、この番組のテーマが完結されたことにならないのではないかと思えたからである。

 私たちの周りには望む望まないにかかわらず、多くの命がひしめいている。命の定義をどこに求めるのかについて私自身ほとんど理解できていないことは承知の上である。何かの本で読んだのだが、例えば「大きな岩」にだって命があるかも知れないとする意見があった。その岩にも数億年の単位で呼吸し成長し思考する一つの意思を付与することができるのではないかとの意見であった。
 そこまで言ってしまったら私の中での「命」は収拾がつかなくなってしまうので、とりあえず人間や動物や植物が命を持っている程度の範囲でこの問題は折り合いをつけることにしよう。それなら多くの人々と命についての意識を共有できるだろうかららである。

 さて、人間を最高位に格付けするつもりはないけれどこうしたレベルにおける命にしたところで、人間から路傍の草木、更には微生物にいたるまでの命を包括的に理解するとなるとかなりな困難に直面する。私たちは命に対して様々な思いを抱いているけれど、その中の一つに確信的な意味の付与がある。それは「命を大切に」の思いである。そうした理解は単に人間に対してのみならず家畜や愛玩動物などにも拡大し、更にはそれ以外の命にまで及ぼうとしている。そうした命の周辺に私の抱いた間引き・間伐がまともにぶつかってくるのである。間引きされた芽にも、間伐された木材にもそれぞれに命の存在を認めなければならなくなってくるからである。

 つまり、おいしい野菜や大切な木材を育てるためには「邪魔になる芽や幼木は抜き取ってもいいし、伐ってもいい」、いやいやもっと極端に言うなら、より価値の高い生命のためには価値のないもの、もしくは低位の価値の命などは犠牲になってもいいことをどこかで承認しなければならなくなってしまうからである。単に間引きや間伐のみではない。話は雑草や害虫の駆除や人工妊娠中絶などにまで及んでいくからである。

 人の命と雑草の命を一まとめに論ずるのは間違っていると言うならそれはそれでいいだろう。だとするならその前提として「人の命」と「人以外の命」とは別物なんだとの区別に対する理解をまずしなければならなくなってくるだろう。いやいやそれを超えて、少なくとも「私の飼っている犬の命だけは人の命と同列だ」くらいまでは考えるべきだと言うのなら、それはそれでもいいだろう。だかそれとても犬の命を人の命の中に含めることを意味するのではないだろう。

 そうした考えは、つまりは「命の親疎」を基準とすることの是非はともかくとして、命には順番があると言うことであり、順番を認めるということはそのまま命が有価値から無価値へと連続していることを認めることでもあろう。そして間引きされる芽の命や間伐される木材の命はその連続の中で、「ここからは捨ててもいい命」として位置づけられた命だと言うことでもあろう。

 さて、なんならそうした前提を認めても良い。人と動物と植物と細菌とで、または同じ種類の中でも何らかの基準による価値の違いによって、上位は下位を意味なく切り捨ててもいい、または理由がつくならその命を奪っていもいいとするならそれはそれでもいいだろう。場合によっては人間に限り人間以外の命の処分は勝手であると言いたいのならそれもいいだろう。

 だとするなら、間引きされた芽の命についてもそうした理由を番組の中できちんと説明する必要があったのではないかと思うのである。命をテーマとする番組の中ではどちらかと言うなら「どんな命も同じように大切である」ことだけを繰り返しているような気がする。しかし同時にその一方で私たちが命を食べていることや、命の犠牲の上に毎日の生活が成り立っていることを、どこかですっ飛ばしてしまっているような気がしてならない。そこのところが私にはどうにも落ち着きが悪いように思えてならないのである。

 私はそうした命の定義をきちんとせよと言いたいのではない。命の問題は恐らくそんなに簡単に割り切ったり説明したりできるようなものではないと思う。場合によっては個々人の好悪も含めた意識にまで及ばないと解決していかないのかも知れない。「邪魔だったり食うためなら殺しても構わない」、「人類の利益になるなら命を奪っても構わない」などと、そう簡単に定義できるものではないだろう。

 だからなおさらに私は間引きや間伐についても、それが同時に命の処分であることに触れる必要があったのではないかと思うのである。きちんと説明できないのならできないままでもいい、間引きされた芽にも命があること、間伐された木材にも成長していく命があったのだということを、そしてそうした命を人がある目的のために切り捨てる場合がここにあったのだと言う事実をきちんと取り上げるべきではなかったかと思うのである。

 最近、北海道にはエゾシカが増えてきているのだそうである。農業や森林に被害が拡大しているので年に数万頭を限度に狩猟を許可することが認められたと言う。ブルーギルと呼ばれる外来種の魚が池や沼に繁殖して在来種の絶滅が心配されていると言う。飼い主が飼育を放棄したアライグマが野生化して農作物を食い荒らしているそうである。熊が民家の近くに出没して人に加害すると言う。単に動物だけではない。マリファナの原料となる大麻が北海道各地に野生化していて、採取したり栽培したりする人が増えているとも聞く。

 これに限らずこれらに類似した問題はいたるところに発生している。そしてそうした事実に対処する私たちの行動と必ず結びついているのが「駆除」の問題である。繰り返すけれどそうした場合の住民などへの説明は必ずと言って良いほど「人間にとって害があるから駆除する」であり、めでたしめでたしのうちに終ってしまう。そこでは決して「駆除される側の命」のことなど端から話題なることなどない。

 命を一つのカテゴリーに押し込めてしまうのは難しいことだと思う。もしかしたらそうした命の選別についてはきちんとした整合性のある説明などできないのかも知れない。それでも私は思うのである。少なくとも、そこに「奪われる命」があることの事実を伝えた上で、たとえ「答えの見つからないテーマ」だとしても、私たちは考えていかなければならないのではないだろうかと・・・。

 昨日(2.25)のNHK教育テレビで見た数秒のシーンである。北海道で酪農を営む家族(「8人と80頭」のタイトルがつけられていた)の手伝いをしている小学生を追いかけた番組であった。その中にその子の発した何気ない一言、「もしオスだったらお肉に出すよって言われたの」があった。恐らく間もなく生まれるであろう子牛の出産を前にして父親か母親に言われた一言だったのだろう。私にはこの子の発した何気ない一言のほうが、命の大切さを語るどんな言葉よりも私たちが生きていることの本質をまっすぐに衝いているような気がしたのである。
 北海道の牛はそのほとんどが乳牛である。搾乳できないオス牛、次世代の搾乳牛を産むことのないオス牛は人工授精が当たり前になっている現在種牛として生き残る道もなく、そのままソーセージなどの原料として販売されてしまうからである。

 人はどんな場合も死とまともに向かい合って生きているのである。「何よりも命が大切」なんぞと言ったきれいな包装紙に包まれた抽象的な言葉などどこかへ霞んでしまうような現実の中で、私たちは今を生きているのである。そのことをきちんと知るのが自分を知ることであり、そうした命の現実をきちんと伝えることが私たちに与えられた生きていることの意味ではないか、そんな風に私は思うのである。



                                     2010.2.26    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



命の連続