人はどこかで何かの集団に自らの意識も含めて帰属せざるを得ないのかも知れない。男なら恐らく職場などが一番に来るのかも知れないし、場合によっては家庭や町内会の役員などのような一種のステータスである場合もあるだろう。そうしたとき、人は無意識にその帰属する集団の目標と言うか望まれる姿みたいなものに影響されてしまうのかも知れない。

 つい先日の新聞にこんな投稿が載っていた。それは全国薬物依存症者家族連合会理事をしている人からの、薬物依存症の入院患者が違法薬物を所持していることを医師が発見した場合に、その事実を警察に通報すべきか否かについての『医師は通報より治療優先で』と題する意見であった。

 「・・・入院患者の中には、外出許可を受けた際に違法薬物を持ち帰る者もいる。その際、医療機関の対応は大きく分けて3通りある。@通報して取り締まり機関に逮捕させるAそのまま治療を続けるB治療も通報もせず、そのまま退院させる。問題なのは@のケースだ。治療の過程にある依存症者を犯罪者として扱うことは、立ち直ろうとする多くの依存症者と家族を社会的偏見にさらし、孤独感を強く抱かせる結果になっている。ひいては薬物依存から立ち直れなくなってしまう。・・・(このように)対応が分かれている現状では、依存症者や家族は医療機関への不信感がぬぐえない。その結果、治療を受けることをためらうことになりかねない。」(2010.2.3、朝日新聞、『私の視点』)

 こうした言い分がまるで理解できないと言うのではない。ただどうしても彼が所属している組織に都合の良い論理があまりにも優先され過ぎているような気がしてならなかったのである。

 彼の言い分の対象者は「外出した入院患者」とそれにかかわっている「医師」である。そしてその患者が「違法薬物」を持ち帰ったのである。投稿者は患者の持ち帰った薬物が「違法」であることを担当する医師が知っていることを前提として述べている。
 しかも、しかもである。彼はその事実が「取り締まり機関へ通報すべき事実」であることを担当する医師が理解していることをも前提としているのである。それにもかかわらず彼は「・・・依存症者は患者なのか、犯罪者なのか、医療機関によって扱いに大きな食い違いがあることを問題提起したい」と述べ、投稿のタイトルにあるように医師による通報を否定するのである。

 その理由として彼は、「(通報する、しないの対応が分かれると)依存症者や家族は医療機関への不信感がぬぐえない。その結果、治療を受けることをためらうことになりかねない」を掲げる。つまりここから明らかに見えることは、彼の見解の背景には「患者とその家族」しか存在していないことである。その背景をまるで分からないと言うのではない。彼が理事を務めているのは依存症者家族連合会なのだから、その名称からも分かるとおりその会の構成員は依存症者とその家族であることは当然だからである。

 だが、法律がある種の薬物に対して使用はおろか所持さえも違法と定め、その事実を知った者による警察などへの通報を義務付けたのは、患者の治療や更生などを主目的にしたものではないはずである。もちろん患者への治療などどうでもいいと位置づけるつもりはない。ただそうしたことと同じように大切なものとして、薬物が患者はもとより一般人へも拡大していくことの危険性を広く防止することを目的としているであろうことは、取り締まりについてそれほど知識のない私にだってすぐに理解できることである。

 さて、投稿文からも分かるとおり、投稿者は「医師が入院患者の一人が違法である薬物を密かに持ち帰ったこと」を前提としている。患者に不審な行動が見られるとか、薬物中毒に影響されたと思われる現象(つまり疑い)があるというのではない。現に違法薬物が持ち込まれたことを医師は確認しているのである。
 そうした現実にもかかわらず投稿者は、「医療機関への不信感を避けるため」と称して医師による取り締まり機関への通報を否定するのである。

 確かにこうした対応によって依存症者やその家族は取り締まり機関による強制的な処遇を免れることができ、今までどおり医師とのかかわりを維持することができるかも知れない。それを「医師と患者の信頼関係」と呼びたいというのならそれはそれでかまわない。
 だがこうした視点には、「依存症者とその家族」以外の者の存在が欠けていることに投稿者がまるで気づいていないように思え、そこがどうしても気になってしまうのである。気になるどころかそうした関係を信頼と呼ぶこと自体間違っているのではないかとさえ思えてくるのである。

 通報を受けた取り締まり機関が、そうした事実に対して具体的にどのような方針で対処していくのか私は知らない。場合によっては「違法薬物の所持」に対する刑事罰にのみ力点が向けられ、患者に対する治療や矯正などへの配慮を欠いた対応になってしまうのかも知れない。それでも違法薬物はその時点で取り締まり機関に確保され、必要に応じて入手先追求などの捜索へとつながっていくことだけは確実なことだろう。
 私は患者やその家族が抱くであろう医療機関への信頼など不必要だと言いたいのではない。ただそうした彼らの抱く信頼と呼ぶ側面からだけでこの問題を見てしまうことの危険性を、医師も投稿者も理解すべきだと思うのである。

 投稿者が自らの立場に固執するあまり、患者やその家族にこだわる感情を抱くことを否定はすまい。そうした感情を理解しつつも、一般社会人としての視点も考慮に入れた上で、そうした違法薬物の持ち込みと言う犯罪事実を隠蔽(あえて私はこうした言葉を使いたい)することと医療機関としてのあるべき姿とのバランスをどこに求めるべきかを悩むべきではないかと思うのである。そして違法の事実をきちんと見据えた上で、確実な通報や薬物拡散の防止、そして通報者や所持している患者に対する治療なりの指針をどうしていくかと言った取り締まり機関などとのシステムの構築が必要とされていくのではないだろうか。

 単なる「患者と医師の信頼」と言う美名の下に、違法な事実が医師の恣意的な判断によって隠蔽されてしまうことは、法治国家としてあってはならないことではないかと私には思えてならない。そんな形での患者との関係を医師が「信頼」などと安易に名づけてほしくないである。そうした考えはまさに医師や投稿者集団の抱く甘えであり、ひとりよがりの自己満足にしか過ぎないと思えるからである。
 それはもしかしたら、そこまで考えなければならないほどにも麻薬犯罪とは唾棄すべきものだと私が頑なに思い込んでいるからなのだろうか。



                                     2010.2.19    佐々木利夫


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麻薬所持と通報