残忍、暴力、非道、テロ、戦争…、そうした人間としてあってはならないとされている様々が、実は自分の中にも間違いなく存在していると感じることは人として当たり前のことなのかも知れないけれど一つのショックでもある。正義を頭で理解し、人としての正しい姿だと感じ、それを支援する多くの本を読み納得し、しかも世界中の誰もがその実行や実現を望んでいるであろうにもかかわらず、どうして私はそのために指一本動かそうとしないのだろうか。どうして缶ビールを片手にテレビに写る殺人や世界の紛争や飢餓や自然破壊の現実を、まるで他人事(ひとごと)のように見ていることができるのだろうか。
「それはそうだろう」と言い募るもう一人の私がいる。私にだって当たり前の日常があるのだし、そうした日常を平穏に過ごしていくことだって、「私の人生」という意味ではとても大切なことだと思えるからである。そんな日常に仮に矛盾を感じたところで、どんな場合にも正義を貫くことが人生を全うすることなのだと言い切れるかどうかの判断すらもが揺らいでくる。
話は少し変わるけれど、つい先日飲み仲間とこんな話になった。どうせ酔ったついでの話なので、結論も妥協もないまま尻切れトンボになってしまったのだが、とりあえずは「法律を守ることの正義」の話であった。要は、「正しいことってのは、どっちつかずの割合の中にあるのだろうか」と言う話しであり、正義ってのは「絶対正義」以外にもある得るのだろうかという問いかけでもあった。
例えば私は「人を殺したことがない」。少なくともこのことに関して私は正しい。また例えば「人の物を盗んだことはないか・・・」と誰かに問われたとしても、私は間違いなく「イエス」と答えるだろう。だが厳密な意味で「その答えに間違いはないか」と自問するなら、私のこれまでの長い人生の間にこの問いかけに反する事柄が一つもなかったとは言いきれないことを私自身が知っている。仮にそれが道に落ちていた100円玉をポケットに入れてしまったことにしろ、スーパーの買い物で「おや、つり銭が100円多いんじゃないか」と感じながらも深く詮索することなくそのまま店を出てしまったことにしろである。
嘘をついたことはないか、交差点を赤信号で渡ったことはないか、裏切ったことはないか・・・、などなど、世の中のルールや規制に対して一つも反したことはないなどとは決して言えないのが私の実像である。だとすれば「私は正義ではない」ことになるのか。一つの過ちも許さないとするなら、私は正義を主張することなど金輪際できないことになるのだろうか。
にもかかわらずそこにも一つの救いがないとは言えない。「程度の問題」というとても優しい思いやりである。1万、10万ならともかく拾った10円や100円をポケットに入れたところでそんな小さなことに悔やむことはない、右見ても左見ても一台の車も来てなかったのだし周りに私の行動を真似るような小さな子どもの姿もなかったのだから、そんな状況で赤信号を無視したところで誰に迷惑かけるでもないのだから許されるだろうなどなど・・・。
「現代社会においては、帰属集団や役割の多層化も増し、場面場面で自分が異なるふるまいをせざるをえない状況が常態化している。そのためアイデンティティを単一のものではなく、ときには矛盾し、葛藤し合う役割の束のような複合的なものとして捉えたほうが、現実に起きていることも理解しやすい」(宮地尚子、環状島 トラウマの地政学、みすず書房、P101)。
人は確かに単一ではないかも知れない。個人は「個」としてはたった一人ではあるけれど、同時に多様な役割を持っている。それは単に男、夫、職業、ポスト、仕事、遊び、買い物などといった分類だけではなく、「昼飯を作る材料を買うためにスーパーへ出かける」などの日常的な行動の中にだって、いくつもの「私」を分類することができるだろう。
そうしたさまざまな分類に対して、人はそのそれぞれの役割としての「異なるふるまい」が認められるのだろうか。仮に認められるとして、その「認められる者としての私」に対峙する「認める者」とは一体誰を指しているのだろうか。
「これまで中立とか普遍的とみなされてきた判断や知識が、いかにある種の特権を前提にした、例えば先進国、中上流、男性、白人、健常者、大人といったマジョリティの視点からの判断や知識でしかないのか」(宮地尚子、同上、P133)。
判定者存在の多様性とその判定基準の不確かさはそのまま、何ごとにも確定的な答など存在しないことを示しているのかも知れない。
前述の「正義も割合か」を話している最中に、数十年も昔に友達と交わした音楽の演奏についての話題を思い出した。どんないきさつからそんな話になったのかは今となってはすっかり忘れてしまっているが、「素晴らしい交響曲の演奏」についてであった。友達の言い分は、「もしオーケストラの楽団員の中の一人が、仮に一箇所の演奏ミスをした場合、その交響曲は完璧ではないことになるのか」の問いであった。
演奏ミスと言ったところで、単に音を一つ間違えたことのみならず指揮者の意図した情感から外れた演奏などにいたるまで様々な場面があるだろう。
本当に正義とは割合で示されるものなのだろうか。正しい演奏と正義の実現とを並列に考えることは間違いかも知れないけれど、「程度の問題」はあらゆる場面に展開してくる。音符通りに演奏する技術を、仮に正しい周波数の音とその音を持続すべき時間の正確さを意味するなら、そうした演奏は今のパソコンでならいくらでも可能である。だがそれを「望んでいる正しい演奏」だとは誰も認めるまい。
さてもう一つ。仮に完璧な演奏なりその記録がここに存在したとしよう。それが例えばラジオ放送などで受信状態が悪いために雑音が入ってしまったとしたら、もしくは演奏会場で客の誰がくしゃみをしてしまったとしたら、そのことだけでその演奏は不完全なものになってしまうのだろうか。
どんな場合にも「程度の問題」は存在するのかも知れない。私が横断歩道を赤信号で渡ったとしても、そのことだけで私の全人格が否定されるわけではないだろう。それはたとえ道端で拾った100円をポケットに入れたとしてもである。恐らくそうした場面はあらゆる人のあらゆる人生に、その人が社会人として生活してる限り発生してくるだろう。真っ白な人生、純粋無垢な人生なんて、極端に言うならどんな人にだってあり得ないと断言していいのかも知れない。
だからと言ってそうした一つ一つ誤りが仮に程度の問題だとしても、誤りだとの前提を置く限り正当化されるわけではないだろう。ましてや、正しいことを七つやったのだから、この辺でこの程度の「良くないこと」なら一つくらいは許されるだろうとの言い訳が通るものでもないだろう。
ならば「ここまで」と一線を画すことが「正しいこと」の限界になるのだろうか。そしてそうした一線を定めるのは己自身なのか他者なのか。他者だとすればそれは一体誰なのだろうか。法もまた揺れ動き、社会もまた同じように揺れ動く。そうした曖昧さの中に我が身を置いてその視点から自分を、または外を眺める。そしてその視点の立ち位置もまた揺れ動いている。こうして書いてきて、果たして私は何を言いたいのだろうかと、ふと思う。「揺れ動くのが人間なのさ」とどこかでうそぶくような声が聞こえる。
かなり以前になるがテレビの人気ドラマ「刑事コロンボ」でこんな場面を見た記憶がある。ある男が自宅でウイスキーのビンに自分の嵌めているダイヤの指輪で傷をつけ、これから飲むであろう酒の量を自分で決めようとする話である。彼はビンに指輪で引っ掻き傷をつけながらこんな風に呟く。「・・・ここまで、ここを超えず・・・」。
それも一つの自律ではある。だがそうした自律には、その傷をつける位置を自身の判断で自由に変えられる、更にはなんならもう一本新しい傷をつけ加えることだってできる、そんな危うさを伴っている。
私は私の中に隠れているまたは隠している多くの「良くないこと」を、どんな位置に傷を設けることによってその線を超えないようにしていけばいいのだろうか。そして果たして「その線を超えないこと」が、そのことだけで正しい範囲に納まっているのだと信じてもいいのだろうか。
2010.4.30 佐々木利夫
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