人が死後生まれ変わることができるのか、少なくとも私は信じてはいない。仏教に「前世」や「輪廻転生」の考えがあることことを知らないではないし、自らの前世での経験を語る人すら存在していることもまた聞いたことがある。
だがまず第一に、私自身に前世の記憶がまるでないこと、友人や知人にもそうした経験を持つ者が皆無であること、学問的にもいまだ立証されていないことなどが私の信じていないことの背景にある。それよりも何よりも、仮に生まれ変わりを信じるなら、直感的ではあるけれど人口爆発と言えるほどの現在の人口の絶対的な増加を説明できないように思えることが後押ししてくれる。
もちろん輪廻転生は「人から人への生まれ変わり」だけでなくあらゆる生物同士に見られる現象であって、人から人に転生するのはそのほんの一例に過ぎないと言われて見れば反論は難しい。別に犬や猫を蔑視するつもりはないけれど、私がトンポの生まれ変わりだったり、死後に私がハイエナだとか結核菌になるなどにはどこか釈然としないものを感じる。釈然としないことと生まれ変わりの事実を認めるかどうかとはまるで関係がないにしても、トンボ時代の記憶のまるでない私にしてみれば生まれ変わりそのものを認めることには抵抗がある。
「命はつながる」だとか「かつて生きていたものが今も生きているし、これからも生き続ける」とする考えにはそれなり魅力はあると思うけれど、そうした釈然としない考えよりは「人生一度きり」と割り切ってしまうことのほうが実感的であり納得もしやすいように思える。そして更に一つ、「人生一度」はリピートの効かない一つの時間の流れに「個としての命」が閉じ込められていることを、世界の人類が不変の事実として信じていることにあると言い換えることのできることでもあろう。
タイムマシンはSF好きの私にとって見れば一つの夢であり、そのことは時間と質量の等価性を方程式で示したアインシュタインの相対性原理へとつながる夢でもある。
だが私の閉じ込められている時間を考える限り、1940年生まれの私の個体としての人生は繰り返すことも少し戻ることも許されることはない。そうした一つの決まった流れの中に私は存在している。
そうした時、「私の人生はこれで良かったのだろうか」との思いは、老いを迎えた多くの人の前に立ちふさがる執拗な疑問である。別の道を歩んだなら別の人生があったのではないか、と思いは非常に確からしさを持って迫ってくる。もしかしたら私はノーベル賞をこの手に抱く科学者になっていたかも知れないし、世界を動かような政治家になっていたかも知れない。更には小説家や芸術家として世の人の感涙をほしいままにしていたかも知れないではないか。だとすれば名もない一介の公務員、そしてその後の場末の税理士として人生、そして70歳を超えた先の見えた人生はそのままやり直しの効かない後悔へとつながっていくことにもなりかねない。
もちろんこうした思いはそうした天翔る人生とは反語の世界にも同時につながっている。パラレルワールドを信じているわけではないけれど、公園の片隅でダンボールに包まってすきっ腹を抱えた人生、犯罪者として追われ続ける人生もまたノーベル賞に並ぶ同一直線上に存在し得ることだからである。
そうした巾のある人生を、いずれも可能性としてあり得る範囲と見るのか、それとも単に夢想の世界にしか過ぎないのかの判断を、「そんなこと誰にだって分かるはずないじゃないか」と断ずるにはいささかの飛躍があるかも知れない。むしろノーベル賞に匹敵するような能力がそもそも存在しなかったことだってあり得るし、犯罪者になるほどの度胸すらもなかった結果によるのかも知れないからである。
だとすれば結果から過去をさぐるしかないのかも知れない。「努力はいつかは報われる」みたいな考え方を理屈として私は信じてきたけれど、報われるほどの努力をしてきたかと自問するならいささか赤面するしかない。努力しなかったとは言わないけれど、そうした努力にはどこかで「ほどほど」とか、「まあまあ」程度の接頭語がついているように思えるからである。ホームレスへの道は努力して求めるものではないだろうけれど、そこまでの覚悟というか決心を背景にした思いの不足があったように思える。
この歳になってみると、これからの人生はどこか余慶みたいに思えてしまうから、「これで良かったんだ」と言うほかない。人生における様々な分岐に、自分の人生を賭けながら選択したような覚悟はあんまりなかったような気がしているけれど、それでも恐らく無数の選択を経て私の今があるのだろうことは事実である。しかもその時々の選択の是非を今更振り返ってみたところで、少なくとも私の時間は一方向に不可逆的に、しかも強制的に流れていくのだからせん無いことだろう。
「諦念」だとか「諦観」を単に諦めるというのではなく、むしろあるがままをあるがままに受け止めることなのだと考えるのなら、今の生活にも「それなりの満足」があり、「ほどほどの達成感」を味わえてもいる。だとすればこれもまたよき人生であったと理解すべきなのかも知れない。
年末が近づいてきて、どこかせわしい年の瀬である。テレビのコマーシャルに振り回されるような生活からは鈍感になりつつあるが、それでも一年の区切りをどこかで考えたいようなそんな気持ちにさせられる12月である。年賀状の準備も概ね先が見えてきているし、クリスマスとは無縁の生活なので、このまま進めば平穏な大晦日が迎えられるような気がしている。
2010.12.15 佐々木利夫
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