最近読んだ本の冒頭は、こんな文章で始まっていた。

 「本来、〇〇は、とても楽しいはずなのに、いまの学校の授業では、なかなかその楽しさを伝えることができません。〇〇の授業が大幅に削られるなどの事情もその背景にあり、子供たちの〇〇離れが進行しています」(コロンブスより上手な卵の立たせ方、ガリレオ工房 著、河出書房新社、P3)。
                                   注 (文中の〇〇は私が勝手に伏字にした)

 実はこの著書の文章の最初の〇〇には「科学」の文字が、二番目と三番目には「理科」の文字が入っていた。読んでいて特に違和感はなかったのだが、ふと、この文章は結局なんにも言っていないのと同じなのではないかと思ってしまったとたん急に気になり出した。

 それはこの文章の〇〇には、どんな文字を入れても成立してしまうのではないかと思ったからである。この本は身近な遊びを通じて子供たちの理科離れをなんとか取り戻そうとの意図で書かれたものである。
 例えば〇〇に「数学」を入れてみよう。今度はそれを消して、代りに「音楽」を入れてみよう。何なら「歴史」でも「水泳」でも、「図工」や「体育」、もっと抽象的に「哲学」や「詩作」などと言った任意の言葉を入れてもいい。何なら「健康」でも「平和」でも「宗教」だってかまわない。

 「本来、〇〇は、とても楽しいはずなのに」との前提に関しては、書く人やそう感じる人の好悪や独断があるかも知れないけれど、仮にそうした前提をイエスとして認めるならばこの文章はどんな用語についても成立してしまうのではないだろうか。

 「本来、ゴルフは、とても楽しいはずなのに」、「本来、野菜を育てることは、とても楽しいはずなのに」、「本来、登山は、とても楽しいはずなのに」・・・。なんなら、「本来、人の不幸は、とても楽しいはずなのに」、「本来、贅沢は、とても楽しいはずなのに」、「本来、働かないでおいしいものを食べることは、とても楽しいはずなのに」・・・、などなど。
 こんな言い方がへそ曲がりの身勝手で単なる理屈のための理屈にしか過ぎない論法だと分からないではないし、この本の筆者がそんなつもりで書いたのでないだろうことだって百も承知である。それでも私は、この文章には読む人を説得しようとする心がこもっていないように思えたのである。単なる文字の羅列にしか過ぎず、文章として必要な心を持っていないように思えてならないのである。

 「学ぶこと」が人間の成熟にとって必要であろうことを否定するものではない。「学ぶ」が「まねる」の意味から変化したと聞いたことがあるけれど、「人」であることの意味にも多岐なものがあり決して生まれたことだけで人が「人」になるわけでないことも承知している。
 だからと言って、「人間は学ぶことが大切だ」と言われたところで、そのことを「嘘だ」と否定するつもりはないけれど、「だからどうした」程度の反応しか私にはできない。言ってることが間違いではないけれど、だからと言ってその言ってることに中味が伴っていなければ、結局言っていないのと同じではないだろうかと思うからである。

 そうした例は引用した文章のような使い方以外にもいくつかある。例えば「平和」、例えば「核兵器禁止」、例えば「飢餓や貧困」などである。
 今年も8月15日が過ぎて戦争体験者の証言をはじめ、遺族や「本当に日本に戦争があったのか」と疑問を抱くような若者や小中学生が「戦争は絶対やってはいけない」などと述べるようなのも同じような系譜にある。また広島や長崎での原爆被災にかかる核兵器の禁止や日本の非核三原則や投下した国の大統領の慰霊祭への参加問題などがそうである。内乱や政争などで難民となった人たちに同情する多くの人たちの、飢餓や貧困を救えとする様々な声なども同じである。

 世界の全人口に向けて「あなたは戦争か平和かのどちらを選びますが」とアンケートをとってみよう。その答えは恐らく、圧倒的な多数で一つの答えに決まるはずである。それにもかかわらず世界から戦争のなくなることはこれまでなかったし、これからもないだろう。核廃絶も飢餓も貧困も意味するところは同じである。人は結果かも知れないけれど「戦争を望んでいる」のである。それはもしかしたら「私の肉親的にも経済的にも無関係なところで行われる戦争ならば」の内心が潜んでいるのかも知れないけれど、どんなに口々に平和を叫ぼうと人は戦争を支持しているのである。

 さてこれに類似した現代人の決断の一つに「それより先にやることがあるだろう」がある。これは戦争か平和かのような切羽詰った状態には表われてこないように思うけれど、何かを選択しようとする場合に反対意見として必ずと言ってもいいほどに主張される言葉である。
 例えばそれは国でも地方自治でも、新しいことに手をつけようとする時や、場合によっては企業などの意思決定などの場にも出てくることのある反対者側の常套句の一つになっている。

 「その意見は正しいかも知れない。だがそれをやる前に先にやらなければならないことがあるだろう」との意見は、見かけ上は提示された意見に賛成しているかのように見えて、実は真っ向から反対しているのである。しかもその「先にやるべきこと」が、正論に見えながらも実はとても抽象的なのが特徴である。
 例えば最近多く見られるのが、国や地方自治でのある施策の提示に対する「無駄遣いの是正」がある。この意見は前提に「大切な国民(市民)の税金が無駄遣いされていることはけしからん」があり、そうした無駄を徹底的に整理してから新しい施策に向かうべきだの意見である。そうしたとき、具体的に「無駄遣いされている個々の事例」を示し、それへの対策を示した上で意見として主張するのなら分からないではない。むしろそうした意見は望ましいことだし、納得力をもっていることだろう。

 だがこうした「無駄の排除」意見が具体的な事例を掲げて主張されることは、決してと言ってもいいほど聞いたことがない。「無駄を排除したその上で、新しい施策に取り組むべきである」は、単なる反対意見にしか過ぎないからである。恐らく政治にも行政にも、企業や任意の団体の運営などにも、多くの無駄、場合によっては不正な支出などが含まれていることだろう。それは組織運営の中にも、組織人の動きの中にも存在し、場合によっては組織そのものの必要性にまで議論が及ぶことだってあるだろう。そうした意味ではそうした無駄かどうかを検証し続けていくことは、政治にも行政にも企業にも必要なことである。

 だからと言って、「無駄が排除されるまで新しい行動は認められない」とする意見もまた間違いである。「無駄の排除」と「新しい施策」とは決して対立したり矛盾する概念ではないと思うからである。それはともに必要なことであり、「無駄は存在しないかとの検証」と「新しい施策がどこまで有益と認められるかの検証」は別個のものとして考えていかなければならないと思うのである。
 それは「何が無駄か」の判定がとても難しいからである。それはある支出の効果の時もあるし、公務員や従業員がまじめに働いているかにまで及ぶ。「勤務時間中にタバコを吸うのは無駄か」、「トイレの回数は」、「コーヒーを飲むのは・・・」、「きびきび仕事をしているか、だらだらしているか」などまで考えるとするなら、無駄の判定とその是正はとても難しいし、それを是正してからでないと物事動かないとする姿勢は間違いだとわかるだろう。

 「無駄の排除」が終ってからでなければ次のステップに進めないことが、最近は正当な意見としてあまりにも世の中にはびこってきているように思えてならない。そんなことでは社会は停滞し続けるだけであり、結局なんにも主張しないのと同じ状態に置かれてしまうように思える。

 船頭多くして船山に登るとか、会議は踊るや、反対のための反対などなど、人は新しく動こうとするものに理由なく逆らおうとする場合がある。そうした賛否様々な意見への説得もまた民主主義の持つ利点の一つではあるろうけれど、「言っているのに言っていない」との同じようなかみ合わない議論や意見の交錯の中に、停滞したまま埋もれてしまう多くの人たちの存在もまたどこか割り切れないものを残してしまう。
 「無駄の排除」と「新しい施策」とはともに取り組むべきであって、決して他方を実現するための人質にしてはいけない。


                                     2010.8.18    佐々木利夫


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