「馬に食わせるほどの薬漬け」などと言われることが多い最近の病院事情である。昨年10月のことだからずいぶん前になるけれど、新聞に勤務医からのこんな投書が載っていた。

 「薬漬け医療をやめてほしい(との投書)を読み、薬の処方は最小限に、と心掛ける者として考えさせられました。薬が多くなるのには、症状ごとに処方を求める患者さんや、薬を出さないと承知しない方がいる背景もあります。・・・現行の医療保険制度では、薬を多く処方するほど収益が上がる仕組みです。逆に薬を差し控えたり整理したりするのを評価する仕組みはありません。どの医者も薬ばかり出すと思われるのは残念です」(朝日新聞、'09.10.1、さいたま市、勤務医)。

 言ってる意味が分からないと言うのではない。だが彼の意見はどこか変である。彼の言う「薬の処方は最小限に」との思いと、「現行の制度には最小限を評価する仕組みがありません」との意見とがまるでかみ合っていないのではないかと思えるのである。彼は医者である。だがこの投稿からは、「一人の医師と一人の患者」が真正面から向き合っている姿がまるで見えてこないように私には思えるからである。

 私は投薬が制度や患者の思惑などで決めるものではないのは当然だと思うからである。そのこと自体については、恐らく投稿者も同意見であろうことは投稿文の中からも読み取ることができる。どんな薬が効果的なのか、例えば他の薬との飲み合わせによる副作用はないのかなどは、投薬の初歩の初歩だと思うからである。そんな初歩的な考えがこの投稿した医師にはないのではないかと思えてならない。なぜなら、そうした当たり前であるべき投薬と言う意識以外の要素で、薬の内容が決定されることを彼自身が認めてしまっているからである。

 私には彼の言う「薬を多く処方するほど収益が上がる仕組み」の実態を必ずしも理解しているわけではないけれど、恐らく手軽に利潤を獲得できる手段の一つになっているだろうことを想像できないではない。そしてこれも同様にきちんと理解できてはいないのだけれど、「薬を差し控えたり整理したりするのを評価する仕組みはありません」ことも事実なのかも知れない。

 こうした現行制度を仮に欠陥だと言うならそれはそれでいいだろう。だからと言ってそうした制度の欠陥の存在を、それを利用して利潤を追求する者が存在することを許容するための言い訳にするのは意味と手段との混同だと思うのである。なぜならそうした欠陥のある仕組みの有無にかかわらず、医師は当然に患者にとって適正な投薬内容を自ら判定すべきであり、「薬を差し控えたり整理したり」することは医師としての当然の義務、そして責務だと思うからである。

 だから私は、そんなことも分からないでいるかのような投書そのものの存在、そしてこうした投書を臆面もなく表明する彼(医師)の姿に、どこか医師全体に対する不安が感じられてならないのである。いやいやそうではないだろう。医師としての責務がきちんと分かっていなかったと言うのならまだ許せるような気がする。むしろ分かっていながら制度や規制などの欠陥と言った現状に責任を転嫁してしまう彼の思いの方に、どこか背筋が寒くなるような思いすらしてしまったのである。

 そして更に気になるのは、彼の言い分によると「薬をたくさん出さないと承知しない患者の存在」をもそうした過剰投薬の背景に重ねていることである。つまり彼(まさに医師そのものである)の言によるならば、医師とは自分の診断で投薬を決める力を持たず、単に患者の言いなりになって薬を処方する存在でしかないことになってしまうからである。

 過大な投薬がこれほど問題になっているのは、そうしたケースが日常的に多いことを示していると言うことでもあろう。その背景にこの投稿者は、利潤追求に走る医師の存在、患者の言いなりに投薬する医師の存在を掲げ、そしてそれは全部、制度の欠陥であり、かつ患者のわがままだとしているのである。

 しかし本当にそうなのだろうか。そうした制度の欠陥や患者のわがままを是正していく以外に、現実に問題となっている過剰な薬剤投与の現状を回避する方法はないのであろうか。私にしてみれば、「医師であることを医師自身がきちんと自覚すること」、たったそれだけの理解と徹底ですべてすっきりと解決するように思えてならないのであるが・・・。



                                     2010.1.14    佐々木利夫


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