人はいつから「勝つこと」の意味を、あまりにも狭い範囲に限定して使うようになってしまったのだろうか。いつの間にか東大に合格することが「勝ち」であり中学の不登校を「負け」と位置づけるように、人は人を分類するようになってしまった。そうした思いは、私自身の中にも紛れもなく存在していることが分かり、時に愕然とする。
アメリカのリーマンショックに端を発した不況は、世界中に飛び火し日本も例外ではなくなった。一過性で終らなかった不況は現在でも多くの労働者の解雇を生み、ネットカフェ難民であるとか路傍生活者の増加を招いている。そうした人々の群れを、私たちはどこかで「負け組み」として評価しようとしているのではないだろうか。いやいや私たちどころではない。そうした人自身が自らを「負け組み」として位置づけようとしているような気配さえ感じる。そのことは彼等自身が「こうなったのも全部私が悪いからだ、私自身の責任によるものだ」と思い込み、誰にも相談することなく時にアパートの一室や路傍のダンボールの中で、誰に気づかれることなく孤独死してしまうことなどからも想像できる(最近見たNHK.の「クローズアップ現代」から)。
また借金だってそうである。多重債務者はいたるところに存在し、その借金をなんとかすると称して弁護士などが高額な手数料で介入するなどの例も発生している。貸す側はいつでも正義であり、借りる側は常に敗者であるとの思いもまた私たちの仲に共通して存在しているような気がする。
「借りたりものは返すのが当たり前」、そうした論理は私たちが疑うことなく信じてきたルールの一つではあるけれど、果たしてそれは本当に検証された正義なのだろうか。もしかしたらそれは無意識にせよ、どこかで刷り込まれた後発的な作為によるものではないだろうか。
刑務所を出所した者の再犯率が高いと問題提起されている('10年1月NHK「クローズアップ現代」)。その背景にはもちろん出所者自身の責めに帰すような事情もないとは言えないだろうが、多くは社会復帰そのものの困難さにあると言われている。
「再犯」を容認するわけではないけれど、もし仮に定職が見つからず、住む家もなく、毎日の食事にも事欠く生活が続き、そこから抜け出せる気配さえ見つけ出せない状況に置かれているとしたら、彼はどんなふうにこれからを生きていけばいいのだろうか。そうした結果を招いた最大の原因は彼自身にある、それを否定することはできないだろうしするつもりもない。だが本当に自業自得や自己責任と言った簡単な一言でそうした結果全部をあっさりと片付けてしまっていいのだろうか。果たして彼を、そして彼等を疎外してしまった善意を自称する我々の側にはなんの責任もないのだろうか。
身体障害者などに対しても同様である。私たちは障害者などの姿を見て、その人を保護し介助の手を差し伸べることの必要性を知らないわけではない。寄付もするし、席を譲り声を掛ける場合もあるだろう。だがそうした行為の裏側に「私には障害がなくて良かった」とか、「私の家族にそんな人がいなくて良かった」などと思い、そうした障害者に娘は嫁にやらないなどと思うような気持ちがまるでないと確信を持って言えるだろうか。
人そのものの中に、強い弱いは事実として存在する。それがたとえ100メートルの競争であろうが、腕相撲であろうが、はたまた病気やストレスなどのような肉体的精神的攻撃に対する抵抗力であろうともである。運動会ではいつもビリだった人と言うもいるだろうし、病気一つしないで100歳を超える長寿をまっとうする人だってきっといるに違いない。
運動能力や身体機能のみではない。それを「力」と表現することの妥当性に必ずしも疑問がないではないけれど、親からの遺産にしろ自力で獲得したにしろ「財力にも」人によって大きな差のあることは否定できない。それはまた学習や政治や学術・芸術などの「能力」についても同様である。
だがそうした事実は、強い弱いを示すことでしかないはずであり、決して「強いことが正しいこと」であることとは結びつかないはずである。にもかかわらず私たちはいつの間にか「強さは正義だ」と思い込むようになっていった。そしてそれはそのまま「負けるの弱いからだ」にいつの間にかすり替わり、「負け組」の範疇にそうした人々を追いやったまま、私たちは擬似的な勝者の中に自らを置こうとしている。
そこまでだったら私は許容できないではない。強いことを正しいことと信じ、その強さを得るために努力し、結果として力を得たのなら、その努力と得られた力を否定はすまい。
だが力を得られなかった者、力及ばなかった者、力を発揮するだけの力を出せなかった者、力不足で挫折した者、いやいや、もっとはっきり言って、力を出そうとさえしなかった者、力半分で諦めた者など、そうした者までをもひっくるめて「弱者」と呼び、そうした呼び名の中に「敗者は悪」であるかのようなイメージを吹き込んでしまうことにどこか理不尽なものを感じてしまうのである。
敗者は決して弱者ではないはずである。勝者の存在を否定するわけではないけれど、弱者全部を押しなべて敗者に位置づけることで人はその上に君臨しようとしているのではないだろうか。そしてそうした位置づけをすることで人は自らを勝者の中へと押し込めようとしているのだろうか。
私には今の世の中全部が、「負けたくない、負けたくない」の叫びの中に埋没しているような気がしてならない。弱者であることを自らが承認し、社会もまた弱者の存在が当たり前のこととして承認するようにならないと、これからの世の中に希望と言う僅かな光さえも入り込むすき間は閉ざされたままになってしまうのではないだろうか。
2010.2.5 佐々木利夫
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