「もし、無実なら、真相が君を傷つけることはない」、私が若い頃から読書やテレビなどでちょっと気になったフレーズを書きとめてあるカードの一枚に残されている一言である。作成日は昭和61.4.2、テレビ番組「ドクター刑事クインシー」からの引用と書いてあるから今からなんと24年も前のメモと言うことになる。
私はこの言葉を言葉としても、また税務職員としての仕事に関しても長い間信じてきたし、その意味するところが間違いだとは今でも思ってはいない。ただこの言葉を自分自身に言い聞かせるのならともかく、権力のある者がその権力の行使として他者に言い放つことは、やっぱりどこか傲慢になるのではないかとこの頃思うようになってきた。
例えば税務職員がある事業主なり企業が正しく申告されているかどうかの調査に行く、それはもちろん国民から負託された当然の職務である。そのために職員として採用されたのであり、同時にそのための権力も与えられている。だが調査は、申告漏れがはっきり分かっていて行うとは限らない。分かっているなら調査などと言う手間をかけずに更正なり決定と言う形で職権によって申告額を是正すれば足りるからである。
疑問はあるがそれを確かめる必要があること、仮に疑問がそれほど大きくなくても定期的にチエックをすることで税務署は関心を持って納税者を見つめているとの状況を示すことで適正申告への牽制効果を持たせることもできる、それらが調査の目的でありそうしたチエックをすることも税務職員としての大きな仕事だからである。
そして過ちが発見されれば是正のために修正申告を促したり、必要に応じ職権で是正することになる。もちろんのこと調査で間違いが発見されなければ当初の申告が正しいものとして是認されることになる。そうすること以外に税務調査の方法はないのだから、そのことに私はなんの疑問も抱くことはなかった。
そして冒頭の一言である。例えば調査の結果本人の申告に過ちはなかったとする。それが事実である。税務調査は刑事事件ではないからこうした言葉はふさわしくないけれど、調査の結果納税者の無実が明らかになったことになる。本人は正しく申告していたのだから、冒頭の言葉通り調査によって本人が傷つくことはない。でも本当だろうか。それは単に「追加して納税することはなかった」だけに過ぎないのではないだろうか。調査という形で相手の時間や証拠の提示などを求めた、そうした事実までも調査以前の形に戻るものではない。
もちろん税務調査に対しては受忍義務があるにしても、相手に合理的な理由があれば調査日時などの延期を申し出たりすることは可能である。そうした調査の権限と相手の受忍義務について私は批判的なのではない。むしろ行政としては必要な方法であり、それなくして適正な行政の運営などできないと思っているからである。
だが権限を持っていること、それを適法に行使したこと、その結果事実関係がはっきりして疑惑が解消したことと、そうした経過と疑惑が解決して「めでたしめでたし」、「あなたの疑いは晴れたのでどうぞご自由に」と言うこととは同列に並ぶものだろうか。
こうした疑問がはっきり形をとってきたのは、これに類似した事件が最近刑事事件に関連して起きたからである。それは検察審査会の議決である。裁判員制度などと一緒に改正された司法制度改革のなかにこの検察審査会の議決がある。検察が不起訴とした事件について、これまではあくまでも検察に対する意見だった検察審査会の意見が、二度にわたって起訴相当の議決をした場合には裁判所が指定した弁護士が検察官の代わりとなって強制的に裁判所へ起訴しなければならないとする制度である。
こうした改革の必要性が理解できないではない。背景に検察への信頼の揺らぎがあるのだろうし、絶対的な必要ではないにしてもそうした改革も国民の意思を司法に反映させるための大切な試行だと思えるからである。
ところが最近検察審査会による2度の起訴相当の議決のなされるという事件が発生した。民主党の現職衆議院議員である小沢一郎氏の政治資金規正法違反に関してである。検察は審査会の意見にもかかわらず、秘書などに違反はあっても政治家本人にはその関与を認めるに足る証拠がないと判断し、2度にわたって不起訴とした。これに対する審査会の2度目の起訴相当の判断である。
その強制起訴について私はどうのこうの言いたいのではない。検察審査会の審査に私は関与していないのだから、その当否を論ずることなどできないからである。でも審査会の「起訴相当」とした議決の内容がどうにも腑に落ちないものであった。
それは小沢氏に対する強制起訴議決の要旨が、
「国民は裁判所によって本当に無罪なのかそれとも有罪なのかを判断してもらう権利がある」としている点についてであった。一見したところこの判断に矛盾を感じることはないかも知れない。そうした判断のどこが変なのかと逆に問われそうでもある。ただそうした思いは私たちが冒頭に掲げたような言葉に幻惑されているからではないかと思えたからである。
「もし、無実なら、真相が君を傷つけることはない」。これはまさに権力を行使する側の身勝手で傲慢な言い分でしかない。この言葉は、疑われた者の疑われたことによる傷、それがたとえ心理的なものに過ぎないにしてもそうした傷には気づくことなどまるでない高みからの言葉であるように思えるのである。
そうした思いに気づかないのが権力を持つ者の特質かも知れない。恐らくこうした言葉の発信者は疑われた者の傷を無視したのではないだろう。むしろ傷の存在そのものを気づこうとしない体質が権力には始めから内在しているのかも知れない。
そうした奢りを私はこの検察審査会の議決に見たような気がしたのである。小沢事件は刑事事件であり、小沢一郎は被疑者である。「疑わしきは被告人の有利に」などともったいぶった言い方はすまい。だが裁判の場において検察と被告人が本当に対等だろうか。私がこのエッセイの冒頭に掲げた言葉は、両者が対等であって始めて成立する言葉ではないかと思うのである。
刑事事件はこれまで検察官が専権的に担当してきた。起訴便宜主義と言われるのも起訴が単なる検察官の恣意的な判断ではなく、検察官バッチに象徴されるような秋霜烈日の思いを国民が検察官に付託したからである。もちろん検察にも誤りはあるだろうし、最近の証拠捏造などに象徴されるようにその信頼も揺らいできている現実を知らないではない。それでも有罪率100%は検察にとっては一つの悲願であろうし、また国民の信頼に対する自らへの目標でもあるだろう。決して疑わしい奴を片っ端から捕まえ、判断は裁判で白黒つければいいとのいい加減な意識ではなかったはずである。そしてそれだけの信頼と権限を国民は検察に与え、そのことは逆に逮捕なり起訴された人物へに対する国民の評価にもつながっていったと思うのである。
被疑者が逮捕され拘留されると言うことは、それだけの重さを持つ事実なのである。小沢一郎氏の嫌疑がどの程度のものだったのか私は知らない。だから有罪と確信し起訴すべきだと検察審査会が判断したのなら、私はその判断を尊重しよう。検察の不起訴が、証拠から見て本当に起訴すべきであるのに容疑者との特別な関係や権力者への特別な配慮などによってなされたとするなら、そうした不起訴の判断を覆すのが市民参加の検察審査会としての当然の使命でもあるからである。でも議決のような「国民は裁判所による白黒の判断を求める権利がある」との判断は、私には審査会そのものが自らの権能を放棄したもののように思えてならない。
私は小沢事件についてだけ言っているのではない。恐らくどんな事件でも、起訴された被告人は会社を解雇されるなどして生活の場を失うことが多いだろう。家族もまた世間から犯罪者の家族として見られることだろう。
それを裁判で白黒つくまでの過渡的な現象に過ぎないとは私にはどうしても思えない。起訴されたと言う事実だけで、本人も家族もそれまでの、そして将来も含めた人生を失うのである。そうしたことを、起訴を有罪と同視した世間が悪いと言い募るだけでいいのだろうか。言葉としては「有罪が確定するまで無罪」かも知れないが、検察への信頼の裏返しかマスコミ報道に踊った国民の愚かさかも知れないけれど、世間の評価はそんなものではない。そしてそれは「そう思った世間が悪い」だけではすまないと思うのである。仮に無罪になったら本当に元通り(文字通り起訴がなかったと同様の状態の意味である)になるだろうか。例えば職場復帰や近所づきあいや子供の学校での生活などに限ったところで、起訴以前の状態に戻ることなど事実上不可能であるように私には思える。
だから私は検察審査会にも、検察官と同じようにそこまでの覚悟をもって強制起訴の議決をして欲しいのである。疑わしいから裁判所で判断してもらおう、などとの安易な気持ちで議決をしてもらいたくないのである。検察審査会は秘密会だと聞いている。つまりこれだけの重い権限を持たされているにもかかわらず、その判断の過程に、被疑者や弁護士による弁明や反論などの機会が認められておらず、審議の経過も公表されることはないとも聞いている。
また検察審査会は内閣から完全に独立した行政委員会になっており、仮に起訴権限の濫用があっても責任を負わない仕組みになっているとも言われている(2010.10.26、朝日新聞、私の視点、弁護士・元参議院法制局第3部長、播磨益夫「強制起訴制度 三権分立外れ、違憲では」)。そうした点からも私は審査会の現在の運営にはどこか偏りがあるように思えてならない。
検察審査会そのものの存立に私は反対するつもりはない。むしろ現在の揺らいでいる司法制度の下では必要なシステムだとすら考えている。だからこそ「起訴」の持つ余りにも重たい事実を、審査員にもきちんと理解して欲しいのである。
「疑わしいから起訴しました。裁判で無罪になりました。裁判所が判断したのだから被告人は無罪です。これであなた(被告人)は真っ白になったのですから、家族ともどもこれからは正々堂々と社会を生きてください」、そうした思いは理屈だけにしか過ぎない。起訴されたことで受けた被告人や家族の失われた人生が、真っ白になって戻ってくることなど僅かの例外を除いて決してないのだから。
もう一度繰り返す。「もし、無実なら、真相が君を傷つけることはない」は、少なくとも刑事事件については嘘だと思うのである。そしてもし、「小沢代議士だからいいじゃないか」なんて気持ちが仮にもせよあるのだとしたら、それこそ検察審査会の自殺である。
2010.11.6 佐々木利夫
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