何でもいい、風でも、空でも、人の語るほんの小さな一言でも、普段何気なく過ごして来たことに、ある時、突然「あっ」と気づくことがある。恐らくそれは、そうした気づきたいと願う心の下地が日常生活の中に普段から持ち込まれているからだろう。予備的にもせよ受容したいと願う心が存在していなければ、そうした状況が巡ってきたところで気づくことなどないと思うからである。
昔から「チャンスの女神には前髪だけあって後ろ髪がない」(ダヴィンチの言葉だとも、マキュァベリの俚諺だとも言われているが、はっきりした出典は確かめられなかった)と言われているのも、チャンスをつかむためには普段から心の準備をしておかねばならないことを示唆したものだと言ってもいいだろう。
先日のNHK教育テレビ「サイエンスゼロ」(4.24)は視覚、錯視を巡るものであった。その中で番組は人が多義図形を理解する手段として、数ある可能性の中から無意識のうちに一つの見方が浮かんでくる「ひらめき」であるとか、多義的な見方を切り替えている脳の働きなどが関与しているのではないかと解説していた。多義的図形とは、例えば白黒でできた一つの絵が白を基本にすると壷のように見え、黒に切り替えると人の横顔に見えるような図形(例えば「ルビンの壷」と呼ばれる上記の図形など)のことである。
こうした番組によると、人には生まれながらにして多義的な見方をするような本能的要素を、最初から体内に組み込まれているような気がしないでもない。しかし、解決できなかったもやもやのヒントが夢の中に突然表われてきたり、考えてもいないはずなのに食事やトイレなどの途中で一つのイメージとしてふと湧いてくることがあることなどは、私たちが日常経験することでもある。それは恐らく、「悩み」という形にしろ、「気になっている」という思いにしろ、はたまた逆に「思い出したくない」とか「考えたくもない」と言うようなマイナスのイメージにしろ私たちの心のなかには未解決が一つのこだわりとして存在してからでもあろう。
こうした「気づき」はそうした潜在的なこだわりそのものが醸し出してくる一種の幻影なのかも知れないけれど、いつも突然に表われる。まさに不意打ちのように表われてくる。
そしてそれは多くの場合、「嬉しい」との感情を伴って表われることが多いような気がする。それは嬉しいことだけが記憶に残り、反対のイメージは想起そのものを記憶から締め出してしまうからなのかも知れないけれど、結果的に「嬉しい」と気づくことが多く、その中に多くの幸せが含まれている。
しかもなぜかその幸せが決して特別なものではないことに改めて気づかされることが多く、そうした時はいささか癪な気持ちにさえなることもある。それは日常の中に当たり前のような顔をして普段から寄り添っていてくれたことへの「気づきの喜び」であるが、同時にそのことにどうして今まで気づかなかったのだろうとの歯がゆさへの思いでもあるからである。
そうは言っても普通そのその喜びはあくまで私自身のものであって、他の人がその喜びをともにしてくれると言えるような重さを持ったものでは必ずしもないだろう。
例えばりんご1個とテレビ1台とはまるで無関係でありながら、「1」に付随している個とか台という個性を排除したとたんにそれは単なる「1」だけの存在となり、「1+1」と言う哲学的ともいえる無個性な数式に変身することができることを知ったのも私にとっては一つの気づきであった。机一つと椅子一つとは、どうやったって足し算することなどできないはずである。更にはたとえ同じリンゴであってもそれぞれに色や形や大きさなどが異なるのだから、大根おろしのようにすりおろしてどんぶりに盛るならともかく、それを「加える」ことなど不可能である。「1+1」を理解するためにはどこかでリンゴであることや机やテレビや椅子であることを抽象化しなければならない。色も形も匂いもない、単なる「1」の意味が分かって始めて足し算することの意味が分かるのである。
そんなに面倒くさい理屈が私に理解できたとは思えないけれど、「1」が分かることで私は「1+1」を理解できたのであり、算数の世界へと自分を誘っていくことができるようになったと思っているのである。
ところでそうした「気づき」のためには、私なりの呼び出しの儀式が必要なようである。かつてサラリーマンとして職場にいたときでも、糞詰まり常態になったり新しい思い付きが出てこないようなときには、歩きながら考えたような気がしている。机を離れて廊下を行ったり来たりしながら、ああでもない、こうでもないなどと時にぶつぶつ呟きながら往復していたような気がしている。
そうした思いは今でも同じである。毎日を自宅から事務所まで片道約50分を往復とも歩いているが、そうした行動が、ふとした新しいヒントや「気づき」を私に与えてくれているような気がする。時に違う道を辿ることがないではないけれど、自宅から事務所までを多少の回り道はともかく逆方向まで含めた遠回りまでして歩くことはまずないから、それほど珍しい風景に出会うことはない。
菊池寛の言葉だったろうか、「私が数学で得たものは三角形の二辺の和は他の一辺よりも長いということだけであった」みたいな文章を読んだことがある。つまり回り道するよりは真っ直ぐ行った方が近いという誰にでも分かっているような常識を授業として教えていることを皮肉った意味でもあろうが、私の毎日の歩きだってこれと似たようなものである。だからそんなに多くの新しいルートがあるわけではない。
それでも花が咲き、鳥が飛び、川が流れ、風が吹く。季節の流れがそれに重なり、街並みや線路を走る電車、追い抜いていく若い女性や消防自動車のサイレンの音やヘリコプターの爆音なども興を添えてくれるので、毎日が決して同じではない。
もしかしたら「気づき」とは、解決を考えているときに浮かんでくるのではなく、結局は考えているからなのかも知れないけれど、そこから離れているときにあたかも水中に発生したあぶくのようにポカリと水面に現れてくるのかも知れない。そしてそのあぶくを発生させたり押し出したりしてくれるきっかけになるものが、私にとっては「歩くこと」にあるような気がしている。
もちろん新聞や本を読んでいたり、テレビを見ていたり、時に布団の中でうとうとしているときに「気づき」が浮かんでくることのないでもない。にもかかわらずそれを暖め、熟成させてくれているのはやっぱり「歩き」であるように思えるのである。もちろん「何かにこだわっている」ことが、そうした背景にあるのかも知れないけれど・・・。
2010.4.29 佐々木利夫
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