九州の宮崎県で発症した牛、・豚を中心とした口蹄疫は、当面県外への感染は確認されていないものの県内では拡大が続き、予防のために家畜の展示会だの移動などの制限や様々なイベントの中止などが各地へと伝播し遥かに遠い北海道なども含む全国へと影響を与えていっている。
この感染蔓延の防止は、患畜の発生した牧場は当然のことながら半径10キロ以内の牛・豚は感染の事実に係わらずその全部を殺処分(特定の場所へ埋める)することとし、更に半径20キロ圏内の牛・豚についてはワクチンを投与(予防や治療のためではなく、投与により発症を遅らせるのが目的である)した上で年齢にかかわらず早急に食用に加工し、牛・豚のいない地域を設けようとするものである。
つまり10キロ圏内の牛・豚は感染しているとみなして埋め立ての殺処分、20キロ以内の牛・豚も直ちに加工食品として処理(これも一つの殺処分である)することで牛・豚が皆無となる緩衝地帯を作り、それによって感染の拡大を防ごうとするものである。
それを適期と呼ぶには抵抗があるし、本来の目的から離れて直ちに食用として屠殺することを「殺処分」と呼ぶことにも疑問はあるけれど、生まれるとすぐソーセージやひき肉の原料として売られたり、子牛の状態で育成牛として販売されたり、更には成牛となって食肉用として出荷することが牧場の目的であろう。そうした意味では今回の20キロ圏内の牛・豚はそうした適期とは無関係な一律の殺処分であり、牧場本来の目的とは異なったパターンによる処分であることは事実である。
だからそうした一律の処理に対しては牧場関係者はもとより、無関係な第三者にもどこか命に対する理不尽な思いが残るであろうことの想像ができないではない。それは単に政府によってなんらかの補償がなされることで割り切れるものでないだろうことも理解できないではない。ただこの事件にかかわる報道の仕方やカメラに向かって嘆く牧場関係者の姿に、どこか違和感が残って仕方がないのである。
その違和感はまさに「命」を身勝手に報道の手段として取り上げているのではないかとの思いである。確かに食用にするかしないかにかかわらず、一定の範囲内の牛・豚を全面的に「殺処分」することは、本来の目的を離れた無差別に命を奪うことである。そのことが分からないと言うのではない。
最近の報道によると、処分対象とされる家畜の頭数は269ヶ所、18万頭余にも及ぶようである(6月4日NHK7:00のニュース)。1991年に発生したイギリスにおける同じような事件では、処分された家畜は645万頭にも及び1兆円を超える損失が発生したと言われているから(6.7、NHKクローズアップ現代)、口蹄疫の伝染の可能性を防ぐと考えられる範囲を線引きし、そこを家畜の空白地帯にすることで対処しようとする今回の措置は合理的な手段として理解できる。
ただ、それにつけても県知事や近隣市町村の町長などが、こぞって政府に対して「・・・農家の涙を分かってほしい」と、自らも涙ながらに陳情を繰り返す姿には、どこかしっくり来ないものが感じられて仕方がない。そうした陳情の姿勢に、処分される牛の姿や農家の声を作為的に重複させているように思えてならないからである。
カメラは牛の姿をクローズアップする。牛の瞳は、いつもなぜか悲しそうな表情を見せている。それはこのような処分の場合だけに限らず、例えば晴天下でのんびりと草を食んでいるときであっても同じである。別に牛が悲しんでいるのではないだろうけれど、常に潤んでいるように見える瞳が見る人に悲しげな表情を与えているようである。カメラはそれを意識し、あえてそうした表情を口蹄疫報道に写しこんでいく。
しかもその姿に追い討ちをかけるように、子どもが牛の世話をしている姿や、ワクチンを打たれたと泣き顔で「腹いっぱい食えよ」だとか「おぉ、元気だな」と声をかける農家の姿などを重ねていく。そして今日の新聞である。「抵抗できない子たちを殺すのは本当につらい。お国のため兵隊を送り出す母親はこんな気持ちかと思いました」(川南町、養豚業農家、女性、朝日'10.6.8)。60数年前の戦争での徴兵まで出してきての訴えは、あたかも殺処分を決定した行政への無言の抗議、そして奪われる命を無限定に可哀想だと主張しているかのようである。
私にはその辺がどうも事実と結びついていかないのである。この牛は肉用牛である。飼料をやって肥育して、そして一番採算の取れる時期、高値のつく時期に屠殺場へ肉用として出荷するための商品である。もちろん商品だからと言って生き物なのだから、そこに命の存在を否定することはできないだろう。ただ、そんなことを言っちまったら、鶏舎に並ぶニワトリも底引き網にかかった大量の魚にも、もう少し言わせてもらえるなら米や玉ねぎなどの植物にも同じように命があるのだから、毎日の食卓に上る多くの食品にも同じような思いを感じていもいいことになるのではないだろうか。狩り、育て、適期に売却し、それで生計を立てていく、そんなことは食に携わる多くの人びとが毎日向き合っている当たり前の事象だと思うのである。
だからと言ってそうしたそれぞれに「命」の存在を感じる必要などないと言っているのではない。多くの命の上に私たちの命が成り立っていることは、私だってこれまでここにも色々な場面で書いてきて十分すぎるほど理解しているつもりである。
ただ、その命の問題は、「共通する命」としての場面で理解すべきものではないかと思うのである。少なくとも、「口蹄疫を拡大しないためら殺処分を行う」という側面からのみ捉えることは、命に対する大きな誤解を与えることになってしまうのではないだろうか。
こうした殺処分にだってもちろん「命」は常にかかわっている。だとするならそうした「命を奪うこと」に対して、その命をいとおしむことのどこがおかしいのかと人は言うかも知れない。だが仮にそうした殺処分にも並列した命を認めてしまったら、成牛として出荷したり、ソーセージ原料として生まれたばかりの子牛を屠所へと運ぶときにも、秋刀魚やスィートコーンの缶詰を作るときにも、同じような「命」を理解すべきではないかと思うのである。恐らくカメラマンも写されている農家の嘆きも、「商品として出荷する牛」の場合にはこうした思いの映像を流すことはないだろう。そうした日常的な出荷に対してはもしかしたら「命」のことなんかには思いも及ばず、畜産農家は平然と家畜をトラックに積み込むのではないだろうか。
確かに今回のような場合は、「本来の出荷ではなく、飼育目的から外れた殺処分」であることに違いはない。同じ「牛が死ぬ」ことであってもそこに彼我の違いがあるではないかと言われればその通りである。だが私には農家がそうした違いを「命の違い」として理解し、その理解の上で涙を流しているようにはどうしても思えないのである。そしてそれを写しているカメラマンも、その違いを弁えて報道しているようにはどうしても思えないのである。
今回の殺処分は、「直ちに成熟、未成熟にかかわらず商品として直ちに加工する」という10キロから20キロ圏の牛はともかくとして、10キロ圏内の牛はすべて埋め立てるのだそうである。その埋め立てられた土の山を眺め、「あの場所に少し前まで生きていた牛が埋まっているんだ」と嘆く農家の姿もテレビは映していた。
私はいかにも説得力のありそうに見えるこうした呟きを前にして、果たして彼はスーパーや肉屋の店頭に並ぶ細切れやひき肉やすき焼き用のパック詰めの肉を前にして、「少し前まで生きていた牛が殺され、皮をはがれ、スライスされてここに陳列されている」と思うだろうかと感じたのである。もし「そう思う」と断言できるのなら、私のここでの意見は過ちだと認めなければならないかも知れない。だが決してそんなことなど彼らの頭の隅にだってよぎることはないだろうと、私はどこかで確信めいた思いを抱いているのである。
そしてこうした酪農家の思いの中には、処分される牛や豚への命ではなく、「補償の要求」が強く焼付けられているのではないかと思ったのである。今回の処分の目的が口蹄疫の感染拡大防止にあり、かつそれ以外に何の目的も持つものでないことは明らかである。そうした処分に対しても果たして憲法に定める「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる」(29条3項)の適用をそのまま受けることになるのかどうか、私には必ずしも確信がない。逆に言うなら、もし仮に国に正当な補償をするだけの資力がない場合には、どんなに緊急な事態が生じても、政府は手をつけられないまま放置しなければならないことになってしまうからである。
確かに口蹄疫の蔓延に伴うこうした処分や様々な規制や状況を巡る報道によって、風評みたいなものも含めて、酪農のみならず地域の飲食店や観光にまで影響が出ているから、関係者の受ける経済的な打撃には量りしれないものがあるだろう。だからそうした打撃に対して融資や補償などの支援を国や地方自治に求めたいとする気持ちの分からないではないし、それはそれで対策を講ずべきだとも思う。
だがそのためにたとえそれが動物であるにしろ「命」を人質にとるような訴えは、私にはどこか間違っているように思えてならないのである。ましてやマスコミが、いかにも「命を大切にする」かのような意味を上乗せしながら報道していることにはどこか鼻持ちならないものを感じてしまう。
こうした命の取り上げ方を冒涜とまでは言わないけれど、どこか命への軽視が感じられ、命の尊厳やきちんと向かい合うべき命への姿勢などをないがしろにしているように思えてならない。そしてそうした扱いは、やがて人びとの心に命を薄汚れたものとして印象付けてしまうのではないかと私は恐れるのである。
2010.6.10 佐々木利夫
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