今に始まったことではないけれど、マスコミの国や自治体に対する批判がどことなく「反権力こそが正義なのだ」との思い込み一辺倒になっているように思えてならない。「反権力」の精神そのものを否定したいというのではない。むしろ権力へ立ち向かうことにこそがマスコミにはなくてはならない基本的な姿勢だとすら思っているからである。
それはそうなんだが、だからと言って「反権力」であることがそのまま「絶対正義」につながるものではないだろう。権力に迎合することの対岸に、正義があたかも神託のごとく自動点灯しているものではないと思うからである。権力に迎合しないということは、権力の示す行動に対して無批判に反対することではない。その前にマスコミ自らが権力の示した内容を理解し、同時にきちんと検証することが背景として求められているのではないかと思っているからである。
最近(3.11)、全国で98番目と言われる茨木空港の開港があった。タイミングよく国土省が全国の地方空港での搭乗客の当初計画における予測と08年度の実績とを発表したこともあって、マスコミはこぞって新設空港の先行き不安をあおっている。
その意図するところが分からないではない。国土省の発表によれば地方75空港のうち、利用実績が予測を上回ったのは僅か8空港に過ぎなかったからである。下回ったと言っても、例えば千歳空港のように99%と言うところもあるのだから、全部が全部そんなに大騒ぎすることなどないのかも知れない。だが同じ北海道でも紋別空港は13%だし、稚内空港は28%だと言うのだから、そんなにのんびりもしていられないだろう。
茨木空港の需要予測は年間70万人(05年度計画時)と言われている。しかし、近くに福島、成田、羽田空港が隣接していることや、成田・羽田が滑走路の増設などで本年から増便が決定したこと、それに最近の景気の低迷などもあって、恐らく利用実績は年間20万人程度、初年度収支は2000万円の赤字になると予想されているのだからそうした心配もむべなるかなである。
そうした赤字が今後も続くとするなら、その赤字を補填するのは茨城県が支出するにしろ国の補助によるにしろ結局は税金でしかない。そしてその税金を負担するのは当然に県民なり国民と言うことになる。そこでマスコミなり論者の出番となる。「赤字こそがすべての元凶であり、それを県民国民に強いるなどなにごとか」である。それはやがてそうした過大な需要予想を立てたとされる外郭団体と、そこで役員をしている天下り元官僚の批判へと続く。
私はそうした意見が分からないと言うのではない。そしてこれに引きづられるように世論の多くも、そんな赤字が発生すること、赤字が今後も継続していくであろうことに批判的になる。そして「赤字と分かるような企業なんぞ経営者は最初から作らない」、「まさに官民癒着を絵に描いたような構造だ」との思いへと進んでいく。
それはそうだろう。茨木空港を利用する人は基本的には茨木に住んでいるかその地に工場や会社などがある人、近隣に親戚・知人のいる人、はたまた茨木近辺の観光地へ行く人などだろう。だから、そうしたいわゆる関係者以外のほとんどは恐らく茨木空港などまるで無関係である。無関係な人は無責任である。「赤字が分かっているならそんなもの買うな・作るな、ましてやその赤字を税金で埋めるなどもってのほか」という考えに傾いていくのは当然である。
こうした意見の背景には、「飛行場の設置は収支償うのが基本である」との思い込みがある。つまり空港も「企業経営と同じ」との発想であり、自治体の存立もまた経営と同じでなければならないとする思いである。私はそのことが丸っきり間違いだとは思わないけれど、だからと言ってそこだけに力点を置いて物事を判断してしまうのもどこか方向を誤ってしまうのような気がしている。
国もそうだけれど、自治体、例えば本件で言うなら茨木県の使命は茨木県民の利益である。その利益とは企業経営における株主や役員や従業員の利益と必ずしも一致するものではないと思うのである。企業の目的は売上を伸ばし利益を得てそれを配当なり報酬として配分し、必要に応じて将来の事業拡大のために留保することにあり、極端に言えばそれが基本でもある。
しかし行政の目的は、経営や収支計算のみに限定されるものではないだろう。もちろん無駄な支出に税金を湯水のように垂れ流すことなど問題外だし、企業的な発想や収支償うような経営手法が自治体にも必要な場合もあるだろう。だが行政の財源が基本的に税金にあること、むしろ税金だけにあるということは、自治体存立の背景には国民や県民から集めた税金の再配分、つまり「富の再配分」がその根っこにあると思うのである。
だとするなら第一に議論すべきは、開設した空港の収支が償うかどうかではなく、県民にとってどんな利益があるのか、その利益は税金をもってしても実行しなければならないほどの価値を持つものなのかどうかの検証にあると思うのである。そうした上で、その税金による住民の負担をもっとも小さくするためにはどうすべきかが出てくるのであり、そこで始めて経営としての収支の検討になるのではないだろうか。
国や自治体の目的は経営そのものではないのである。そんなことは例えば生活保護であるとか義務教育、公園や図書館や道路の管理などを考えるまでもなく誰にだって分かることである。もちろん図書の貸し出しを有料にすることや公園に入園料を設定すること、更には一般道の通行を有料化することだって可能ではあるだろうし、どこかで一定の財源の下では住民サービスにも限界はあることだろう。それでもどこかで「ここまでは・・・」を考慮した国民や住民へのサービスを担うのもまた税金の重要な仕事の一つであり、同時に国や自治体の責務でもあると思うのである。
もちろんだからと言って税金の垂れ流しが許されないのは言うまでもないことだし、特定の団体や個人に利益を供与するような税金の使い方もまた許されないことだろう。そういう意味では空港についても同じような検証が必要になるとは思うのである。
飛行場の存在は、その地域とって通行であるとか観光などの利便性をもたらすであろうことに疑問はない。だとすればそれを享受するであろう個人や地域の具体的な利益を測定し、そこから利益を生むために支出しなければならない住民全体や国民が負担する税金とのバランスを比較考量する必要が求められるのではないのだろうか。
単に見かけ上の収支が赤字だからと言って、それだけで「経営を考える企業ならばこんな施設など作らない、住民に税金でその赤字を負担させるのは論外」などと一方的に言い募るのは、どこか「支出があるだけで利益なんぞ少しも生まない生活保護なんてやめてしまえ」と言われているようで、独断が過ぎるような気がしてならない。
単なる収支のバランスに評価を求めるのではなく、住民のトータルな望み、もしくは住民の受けるであろう有形無形の利益をも取り込んだ上での収支を考えていく必要があるのではないだろうか。赤字→税金垂れ流し→反対、の議論は確かに飛びつきやすいけれど、そうした意味でもう一つの側面を無視した偏った意見になっていると私には思えるのである。
2010.3.18 佐々木利夫
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