人が学んでいく過程は何も学校教育だけに限るものではないだろう。何を教育と呼ぶかは難しいテーマではあるけれど、幼稚園から大学、そして職場での研修だの定年後を見据えた生涯教育などという語もあるとろこからすれば、私たちの周りには日常的に教育が溢れているのかも知れない。
それにしても私たちの理解している教育とは、どちらかと言うと受身のシステムが前提になっていることが多いように思える。教育のスタイルにも様々なかたちがあるとは思うけれど、すぐに思いつくのは教壇に先生が立ち、対面に生徒が机に向かってその講義を受けるというものである。寺子屋のイメージから大学のゼミなどまで含めて、「師の教えを弟子が学ぶ」という教育の形式はそれほど変わってきていないような気がする。
だがそれだけが人の学ぶスタイルなのだろうかと思ったとき、もしかしたら人は一人でも自力で学ぶ力を持っているのではないかと感じることがある。そんなことを思いついたのはそんなにしかつめらしいことがらからではなく、たまたま出合った落語を耳にしたときのことであった。
それは古典落語としておなじみの「こんにゃく問答」であった。物語は修行中の旅の僧と寺の住職に間違われた無学なこんにゃく屋の六兵衛さんとの、問答の食い違いの面白さを描いたものである。六兵衛さんの沈黙を無言の行と誤解した僧が手で印を作って問いかけ、それに対して訳もわからず身振りで応ずる六兵衛さんの反応の物語である。
僧が指で小さい丸を作って胸の前に置く、六兵衛さんは両手で大きな輪を作ってこれに応じる。僧が10本の指を突き出す、六兵衛さんはすかさず5本の指を指し返す。更に僧が指を3本突き出すと、今度は六兵衛さんは自分の瞼を押し下げながらベロを出すのである。僧はこのやりとりに驚いて「ご住職はたいへんな学者である」と感心し、もう少し修行してから出直してくると言い残し去って行く。
さて、僧が理解したこの問答のいきさつはこうである。最初の小さな指の輪による問いかけの意味は「住職の胸中はいかに」であった。それに対して住職(実は六兵衛さん)は大きな輪を示して「大海の如し」と答えたのである。次いで10本の指によって「十方(じっぽう)世界は」と問いかけると5本の指で「五戒で保つ」との返事があり、更に「三尊の弥陀(みだ)は」と3本指を差し出すと目を指して「眼下にあり」と返答したのである。このため旅の僧は、六兵衛さんの応答のなんと深遠であることかと仰天したのである。
ところがこの理解は六兵衛さんとはまるで違っていた。僧が帰った後、彼が仲間に憤慨しながら語ったところによるとこうである。僧が「お前のところのこんにゃくはこんなに小さいだろう」と聞いてきたので、「馬鹿やろう、こんなにでかいぞ」と言い返したのであり、「10丁でいくらだ」と聞くから「500文だ」と答えたと言うのである。そしてこともあろうに「300にまけろ」などと理不尽な要求をしてきたので「あっかんべー」をして見せたのである。
この話は勘違いの面白さを語るものであり、どちらかと言うと落語を聞く庶民感覚の側からの感触としての旅の僧の学術的なひとりよがりな解釈に対する揶揄というイメージをからませた話であろう。無学な六兵衛さんが高邁な学識を持っているであろう旅の僧を、その無学を武器にしてやっつけたという快挙を楽しむものである。もう少し言うと、利口そうな僧に対して、住職をニセモノと見破れず無知の沈黙を無言の行と勘違いするような世間知らずの修行の足りなさを皮肉ったのかも知れない。
ところで視点を変えてこの落語を味わってみると、六兵衛さんの快挙に対して密かににんまりとしている庶民の下げた溜飲そのものを理解できないではないけれど、反面この旅の僧の力も可なりなものであることが分かってくるのではないだろうか。僧はこの無学な六兵衛さんから、まさに深遠な宇宙観を学んだのである。私には残念なことに僧が理解した大海の意味も十法世界や五戒のなんたるかについても、きちんとその内容を理解するだけの力はない。それは意味的には僧のひとりよがりの錯覚であり、自己陶酔とでも言えるような閉鎖的な二人だけの密室空間での言葉遊びによる理解でもあるからである。
それでもこの僧はニセモノの住職から、自身の能力を超えるような宇宙観を学んだと思うのである。だからこそ彼は感嘆の言葉を残して更に修行に励むことにしたのだと思うのである。落語を聞いた人たちは、この僧の愚かさを内心密かにからかったのかも知れず、そのからかいの分だけ六兵衛さんに快挙の点数を与えたのかも知れない。しかしながら六兵衛さんはこの問答から少しも学ばなかったのに対し、少なくとも旅の僧は「悟り」とまでは言えないにしても、自分の及ばない世界の存在を知ったと思うのである。
六兵衛さんは外形的には僧にとっての師ではない。また、六兵衛さんには師としての力量もまた皆無である。だが僧の理解した大いなる誤解は、六兵衛さんの存在を抜きにしては考えられない。つまり、結果的に六兵衛さんはこの僧に対して大いなる師として対峙したのである。僧は、無知な六兵衛さんから、勝手に宇宙を学んでしまったのである。
この話は、無知からもまた人は学ぶことのできることを如実に教えているような気がする。教えたつもりなどまるで意識していない対象からも、人はいくらでも学ぶことのできることをこの古典落語は私たちに伝えてくれている。
「我以外みな我が師」と言ったのは誰だったろうか。我以外をすべて師へと位置づけることが妥当かどうか私には必ずしも納得できていない。この六兵衛さんを師と呼ぶことにもどこか躊躇が残るからである。結果的に師であったと理解することもできないではないけれど、この場合の師はむしろ僧自身であったような気がしてならない。僧に大海や十法や五戒などの意味をきちんと理解できる力が備わっていなければ、この落語における誤解そのものの成立が難しくなってくるだろうからである。
もちろんこうした僧の誤解の背景には、僧自身がこれまでに学んできた多くの(恐らく学校の先生のような意味での)師による教育があったであろことを否定することはできないだろう。そうした基礎的な能力があって始めて、その知識の上に自分を立たせることができたのかも知れないからである。
それはそうかも知れないけれど、私にはこのこんにゃく問答の僧の本当の師は彼自身ではなかっただろうかと思えてならないのである。さて、だとするなら教育なんぞと言うのは「誰に師事したところで同じこと」でもあるのだろうか・・・。
2010.3.10 佐々木利夫
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