私にとってのパソコンの便利さはワープロや表計算機能が筆頭だったけれど、インターネットを導入してからはすっかり検索機能にのめり込んでいる。当初は温泉名だのまだ行ったことのない地名などを検索エンジンに入力して楽しんでいたけれど、その後税理士業務たる仕事に使うようになってから、いやいや使えると分かってからは俄然その熱中度が拡大していった。
現在検索大手のグーグルが中国大陸で政府ともめているように、検索結果にはどこか情報管理みたいな他者の意思が介入しているケースがないとは言えないだろう。またウィキペディアと称する閲覧どころか自ら参加もできる百科事典もどきのサイトでは、必ずしも内容が正確である保証はないことや時には都合の悪い情報の場合は書き換えなども行われているなどの話も聞いているから、ネット利用はまさに自己責任の世界であることは定説になっていると言ってもいいだろう。
それはともあれ最近の検索システムは、まさに日進月歩とも言うべき変化を見せつけつつあるようだ。かく言う私が開設しているホームページにも毎月多数のアクセスがあり、時には発表した論文の引用の承諾や仕事の依頼なども飛びこんでくるから、まさにネット恐るべしの感じが強い。
私自身も例えば相談事案の回答を作成するときなどは、基本的には税法や国税庁の通達などをもとに原案を作り上げるけれど、念のためネットで類似の判例や裁決がないかどうか、また全国の税理士や公認会計士などが似たような事例をホームページで発表していないかなどをチエックするなどはどちらかと言えば日常化している。
ところで最近のテレビコマーシャルでの話である。検索大手のコマーシャルだから、「我が社の検索システムはこんなにも便利です」をアピールするのは当然のことだとは思うけれど、それにしてもその内容にどこか違和感が残ってしまった。
それは検索の入力文字欄にこんな言葉が入っていたからである。「仕事のキャンセル 謝り方」、「子供の抱き方」であった。恐らくそのシステムを使って検索することで、このキーワードに対する的確な回答が直ちに得られるのだろう。適切な情報が素早く見つかるからこそ、そうしたコマーシャルになったのだろう。
ネットの情報は、私のように必ずしも検索に慣れていない者が使うからなおのことそうなのかも知れないけれど、無限と言えるほどにも多量に存在している。下手なキーワードを入力しようものなら、あっと言う間に数百万、数千万を超えるような該当件数があるとの表示がされてしまう。結局、最初の数件から数十件くらいは訪問するもののあまりの多さに辟易して中断してしまうことが多い。見過ごした大量の情報の中には、もしかしたら私の欲しい情報が潜在しているのかも知れないけれど、限られた時間内では訪問不能ですらある。
ともあれネットの情報は発信者が無条件の利用を承認していることが多いから、閲覧者がそれを使うことはもしかしたら発信者の意に沿うことなのかも知れない。ならば自由に使って何が悪い。それはそうだ。それはまさに自己責任の世界である。間違った情報を使って意図しない結果を招いたとしても、それは不用意に使った者の責任だからだし、重宝したのならこれまた発信者ともども嬉しい結果だからである。
だがそれにもかかわらず私は思うのである。私自身、ネットの情報を安易に使っていながらこんなことを言うのはどこか本末転倒のような気のしないではないけれど、どこかで「問題解決にはまず、自分の頭で考えるのが最初だろう」と思ってしまうのである。
特にここに掲げた「仕事をキャンセルする場合の相手方への謝り方」みたいなものは、自身の身の裡で試行錯誤を重ねることによって自らの中に積み重ねていく、一種の「我が身の智恵」として出てくるべき行動なのではないかと思うのである。確かに検索の中から礼儀に叶った的確な謝り方が見つかるかも知れない。また、相手方によって対応を代えるようないくつかの方法論を即座に見つけ出すことだってできるかも知れない。ただ私は、そんな一発で正解が出てくるような安易な手段を使って回答を見つけ出してはいけないのではないかと思えてならないのである。
子供の抱き方だってそうだと思うのである。赤ん坊にとって親の抱き方が最初からしっくりくるものではないことは多々あると思う。だから基本的な正解がどこかに存在するであろうことを否定はしない。だがその答えは親と子のボディランゲージとも言うべき対話を通じて、少しずつ互いの了解として形成されていくものではないのだろうか。それは単に「抱く」と言うスタイルだけの問題ではなく、親の匂いであるとか声の掛け方、はたまた授乳や背中を軽く叩いたりさすったり揺り動かしたり子守唄を歌うなどと言った、いくつかの複合的な行動の結果として成立していくものではないのだろうか。
私はネットから得られるであろう回答が間違いだと言うのではない。恐らく正解が書かれているのだろう。それでもなお私は思うのである。試行錯誤と言うのは、選んだ一つの手段が誤りであったことを前提に、そうした誤りを何度か繰り返すことで正答へと近づいていくことを意味しているのだと思う。だとすれば、間違いと言うのは直ちに正さなければならない性質のものなのだろうか。正解に素早く一直線に向かうことが人の行動として望ましいスタイルを示唆しているのだろうか。
マニュアルがいたるところにはびこっている。正解の羅列がそこには整然と並んでいる。その通りに実践することで間違った選択をする可能性は明らかに減っていくことだろう。
しかしマニュアルは、それを実行する者が作ったものではない。そのマニュアルは恐らく数ある反省の中から積み上げられた結果ではあるだろうけれど、にもかかわらずマニュアルを実行する者が自らの行動の結果として作成されたものではない。
誰かの小説で読んだことがある。数学を嫌いになった原因の一つに教科書の最後のページに回答が載っていたからだと言うのである。数学に限られるわけではないだろうけれど、提起された問題の解決は回答を示すことだけにあるのではないと思うのである。回答を見つけ出す過程こそがその問題提出の意図であり正しい解決方法への道筋ではないかと思うのである。
そんなことくらい言われなくたって分かってる、と人は言うかも知れない。だがすべての回答がネットで見つけられるような時代が近づいてきて、そうした手軽さがどんどん世の中に広がっていっているような気がする。それでいいのだろうか。私にはそんな現代がどこか危うく思えてならないのである。こんなことでは人はいつか自分で考えることをしなくなっていく、そんな気がしてならないのである。
2010.2.10 佐々木利夫
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