「西の覗き」とは奈良県吉野郡天川村の大峰山と呼ばれる断崖から下を覗く行事につけられた名称である。いわゆる度胸試し・肝試しの一種で、この地方では山伏の修行の意味も含めて昔からの伝統行事になっているらしい(8.23朝のNHKテレビニュース)。この日の映像は、小学生らしい子供たちが200メートルを超えるらしい断崖絶壁の上に腹ばいになって崖下を覗く姿が映されていた。そして傍らに立つ僧侶らしい大人がその子供に向かって「親孝行するか・・・」、「友達と仲良くするか・・・」、「先生の言うことをちゃんと聞くか・・・」、「一生懸命勉強するか・・・」などと大声で問いかけ、子供は「はい・・・」、「やります・・・」などと鸚鵡返しに答えていた、そんな行事である。
度胸試しを「大人になるための試練」だけのためにあるとは思わないけれど、例えば幼児から少年、少年から青年、場合によっては青年から大人として周囲から認められるための過渡的な行事として日本に限らず世界のあちこちに存在していることくらい知らないではない。またそうした行事を通じて子供はその社会に認知されるような「一人前の存在」になっていくという考えの分からないではない。
この「西の覗き」だって高所そのものが恐怖なのだから、それを克服する勇気を一つの修行体験なり、ある年齢における過渡的な行事に化体させたいとする考えを理解できないではない。
だがアナウンサーがしたり顔で、しかも絶叫じみた声で「命がけの行事です」と中継している姿にはどこか素直になれなかった。それは子供の腹に太いロープがしっかりと巻かれそれを大人が二人掛かりで支えており、子ども自身も体を崖の上に身を乗り出すことなどなく、僅かに顔、それもせいぜい目だけを崖の上に出している程度にしか過ぎないからである。
つまりこの行事には「絶対安全」が保証されているのである。「そんなの当たり前だ」と言われればそれまでである。テレビ中継までしている行事であるし、仮にテレビ中継がないにしたところでこうした行事が社会的に定着しており、大人にせよ子供にせよ参加させる以上参加者に危険がないようにするのは当たり前のことだからである。
私はこうした行事そのものが無意味だと言いたいのではない。参加した子供がたとえ体にしっかりとロープが結び付けられ絶対安全のための手配が確立されていたとしても、その高さから下を覗くことの恐怖を感じるであろうことまで否定することはないからである。「落ちれば死ぬ」との気持ちは、安全策が万全であることだけで解消されるものではないだろう。高所への恐怖は分かる、そしてその恐怖に耐えることを修行と呼ぶことだって分からないではない。
ただそれにもかかわらずこの行為を「命がけ」と表現するアナウンサーの心理や、テレビに映っていた子供がそうした行事への参加を厭だと言っているにもかかわらず無理やり押し付けさせるような親や企画者などの気持ちにどこかしっくりこないものを感じたのである。
山伏の修行の一つだったと言われているから、かつてはまさに「命がけ」の行為だったのかも知れない。もしかしたらその修行で命を落とした修験者が何人もいたのかも知れない。他人のやれないことに挑戦すること、人の限界を超えるところに悟りがあると考えること、自分の限界を自分で超えるように鍛えることなどなど、そうした荒行苦行の中に修行や学びの目的を見出してきた歴史を知らないではない。だからそうした意味ではまさに修行は時に「命がけ」であったと言って良かったのかも知れない。
だがこのテレビ映像は決して「命がけ」ではない。そこには絶対の安全が保障されているからである。恐らく主催者に隠れてロープなしで単独で行動するなどの身勝手な「覗き」をするようなことさえなければ、この「西の覗き」は「絶対安全」であり、そのことは同時に「絶対安心」、更には「命はおろか怪我の心配すらない」までに安全がシステム化されていることだろう。
だからと言ってそうした安心・安全のシステムの中にあっても人は恐怖を感じることはある。だとすればその「命がけ」が仮に一種の見せ掛けに過ぎないものだとしてもそれはそれでいいではないかとの意見があるかも知れない。
私はそこにもどうしても納得できないものを感じたのである。「西の覗き」には恐怖はあるかも知れないが、修行としての人の思いが伝わってこないように思えたからである。「命がけ」の背景には危険そのものに対する理解であるとか、その危険をきちんと受け止めるための不断の努力、更には危険に対処すべき訓練や心構えなどがあらかじめ要求されていて始めて成立するのではないかと思えたからである。だからこそ、危険とそれに対する克服の努力が修行なり自らの人生への覚悟なりに結びついていくのだと思うのである。
ところがこの「西の覗き」にはそうした覚悟みたいなものが一切ない。あるのは安心・安全に裏づけされた恐怖の感情だけである。そんな状況の下で「勉強するか」、「親孝行するか」などと問いかけられ、「はい」と答えることの中にどんな意味があると言うのだろうか。
恐怖が時に人の心を支配することは私たちのこれまでの歴史が教えるところでもある。捕虜から情報を入手するために拷問が繰り返されたり、犯行の自白を求めるために用いられた様々な責め具の数々など、恐怖が人の心を支配できることを私たちはこれまでの人の生き方の中からきちんと理解してきたではなかったか。最近では児童虐待の言い訳に使われる「親のしつけ」の言い分もまた恐怖の具体例である。そして私たちはそれが正しいやり方ではなく、むしろ大いなる誤りであることもきちんと理解しているはずである。
私には「西の覗き」に参加した小学生が、目の前の崖っぷちの恐怖の前で「ちゃんと勉強するか?」、「これからも親孝行するか?」と問われて「はい」と答えた言葉の中にどれほどの真剣な思いがこもっていたのか疑問に思うのである。「西の覗き」が拷問や強迫によるものだと言ってるわけではないし、拷問や強迫の要素があるとも思ってはいない。それにもかかわらず私には小学生の「はい」が、心からの「はい」だったのだろうかと疑問に思うのである。
この「はい」は、単なる一つの行事を通過させるための儀式としての用語、例えばお神輿を担ぎながら「わっしょい」と叫ぶような単なる信号にしか過ぎないように思えてならない。大人から「勉強するか」と問われて「はい」と答えるのは別に崖の上の恐怖を背景にしなくたって、教室や家庭で先生や親から言われた時にだって出てくる言葉ではないかと思う。
それにもかかわらずこの「西の覗き」は、その周囲に恐怖と言うシチュエーションを設定することで、いかにもその問答を真剣らしく見せかけているに過ぎないのではないか、そんな風に思えたのである。そこに「恐怖」と言う場面設定を加えたことで、逆にその演出と言うか「行事そのものの嘘」が表に出てしまったのではないだろうか。
「西の覗き」を経験した多くの人びとの中で、本当の意味での「西の覗きで宣言したことによって私の覚悟(人生観)が変わった」と言える人なんぞは、私には一人もいないのではないかと思っているのである。いまどきの修行なんてのはそんなもんさ・・・、と言っちまったらそれまでのことではあるのだが・・・。
2010.8.27 佐々木利夫
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