元裁判官(現弁護士)の書いた裁判員が死刑判決を出すことに関する意見を読んだ(2010.7.28、朝日新聞、オピニオン)。彼の意見の主要な点は、「もし、死刑判決を出す際、わずかでもためらいを感じたら、裁判官や他の裁判員と徹底的に話し合ってほしい。全員の合意が形成されるまで、判決を出すべきでない。多数決で人の命を奪ってはならない」にある。
 ただ彼がこの論説の末尾に掲げた「何より後で、もし万が一、被告の無実が証明されたら、生涯、私のように悔やみきれない思いを抱きながら生きることになる」ことについては、言ってることは正しいとは思うもののどこか抵抗感が残ってしまった。

 「絶対に誤った判決を下してはならない」は真である。それは死刑判決に限るものではなく、たとえどんなに軽い罪にだって犯罪を犯していない者に間違った判断が許されるものではない。それはその通りである。だがそれは「絶対に」実現不可能な命題でもあるのではないだろうか。

 冤罪が許されないとの正論が繰り返されることは、逆に現実に冤罪が起きていることの証左でもある。だから私は冤罪は起こり得ることを所与の前提として裁判制度を考えていくべきではないかと思ったのである。仮に絶対に誤りなき判断を裁判に求めるなら、裁判そのものが機能不全に陥ってしまうのではないかと私には思えるからである。
 裁判とは人の犯罪を裁く場である。もちろん犯罪以外にも損害賠償や貸し金の回収や工事の差し止めなどなどを求める、民事や行政などの訴訟も存在するけれど、対立する主張について何らかの公権力なり強制力を持った機関が判断を示すと言う意味ではそれらも刑事裁判と異なるところはない。そして裁判とは人が出す一つの結論であり、そして時に人は判断を誤ることがあるのである。

 判決はかつては神が下すものであったかも知れない。恐らくその「神」の中には犯罪を犯した者の抱く「良心」や犯罪者を取り巻く民衆の思惑や意思などが含まれていたかも知れない。だが人はやがてそうした神による判断を信頼することができなくなった。
 例えそれが長老や呪術者などと言った特定の者に委ねることになろうとも、人は人による判断を求めるようになった。神に委ねるよりも人の方が納得できる判断を示すことができると信じるようになった。

 やがて人は法を作り、法に反した行為を罰するという形で一つの判断を自らに課すことにしたのである。立法、行政、司法という三権分立がどこまで正しいシステムなのか、それ以外にもっと適正なシステムは存在しないのかについて私には必ずしも断言はできない。ただ少なくとも今の私たちはこの制度が望ましいものとして選択したのである。

 その中の司法として裁判は存在している。「人を殺した者は死刑」・・・と刑法は定め、その死刑を宣告するのは裁判所のみの権限だと定めた。裁判所としての判断は裁判官が行うけれど、昨年からはこの判断に一般国民たる裁判員も参加することになった。今のところ示された裁判員裁判による判決では無期懲役がもっとも重く死刑はまだ宣告されてはいない。やがてそうした場面が遠からず巡ってくるだろう。そしてそこに冒頭に掲げた元裁判官の意見がつながる。

 私は彼の言う「間違うな」が誤った主張だなどとは決して思わない。まさに正論である。だが私には、この正論が「実現不可能な正論」なのではないかと思えて仕方がないのである。人が人を裁くのに完全性をどこまで求めるべきか、仮に判断の過ちを決して許さないのだとしたら、唯一の答えは「裁かないこと」になってしまうのではないだろうか。
 人は時に過ちを犯す、それが人間なのだと私は思う。過ちを少なくすべく様々な工夫を人は裁判制度にも持ち込んできた。その基本的なものが「適正手続」ではないかと思う。

 誰が見ても適法に採取されたと認められる証拠のみを採用することや、検察・被告人双方にも公平で客観的に成立したと認められる証拠のみをもとに事実関係を積み重ねること、そしてそうした証拠だけを基に法律を適用して判断していくこと、それが「正義」なのだと信じて私たちはシステムを作り上げてきたのだと思う。
 それでも人は間違いを犯す。それは判断を示す方程式の変数の中に間違いがあるからである。多数の変数はそれぞれが適正手続きを経て求められたものだろう。それでもその変数に過ちが紛れ込む可能性を否定することはできない。私たちはそれを三審制度というシステムを通じて過ちの修正を試みた。一つの事件を三つの独立した裁判のなかで認定する方法を作りあげたのである。

 三審で足りるのか、再審制度を加えることで果たしてそのシステムは完璧になったのか。それは恐らく答えの出ない問題だろう。それでも私たちは裁判を放棄するすることなどできはしない。そして「無罪」もまた誤った判断の一つになり得るのだから、間違いを犯さない判断など望むべくもないだろう。ことは「無罪」にしたのだからそれが仮に過ちだったとしても影響は軽く許されるだろう、ですまされるものではないと思うのである。
 私には「時に過ちの起きることを認める」ことを前提とし、そしてそれを許容するような裁判システムの構築が必要だと思うのである。神に審判を委ねることなど論外である。人は人を裁くことを人の使命として自らの意思で決したのだからである。

 さてもう一つ、この元裁判官の投稿には解決できない問題点が含まれているように思える。それは「わずかでもためらいを感じたら・・・」の部分である。彼がどんな意味でこの一言を付け加えたのかは文中では必ずしも明らかにされていない。彼が述べているのは主として裁判員の下す死刑判決についてである。
 そうしたとき、「ためらい」には二つの意味がある。一つは「事実認定に関すること」であり、もう一つは「死刑判決を下すこと」である。事実認定についてならば、私には彼の言う意見に何の異論もない。ある事実をもとに判断にいたるのだから、その事実に少しでも疑わしいことがあるなら、まさに彼の言うとおり「徹底的に話し合って」事実を確定すべきだからである。

 だがその「ためらい」がもし仮に、「死刑判決を出すこと」そのものにあるのだとしたら、これまた人は出口のない迷路へと踏み込んでしまうことになるではないだろうか。そして私には前掲した彼の末尾の論述からするなら、その言い分は事実認定へのためらいではなく、後者の死刑そのものにあるような気がしてならないのである。

 「執行しない死刑判決」というのが理論的にはあり得るだろうけれど、現在の日本の法システムの下では認められていないからここでは論じない。とすれば、死刑を下すことへのためらいには、冤罪のほかに人の死に対する個々人の哲学がぶつかってくることは否めない。これは死刑が法定されている現在の司法というシステムでは解決できない問題である。確かに死刑判決を回避することでとりあえずこの問題から離れることはできる。だがそれは単なる回避であって解決ではない。

 そして恐らくどんな場合でも「死刑判決」にはためらいがあるだろう。それは人が他者の死を決定することへのためらいでもある。法的にも、しかも情状的にも死刑が相当であると判断されたとしても、それでも人が人の死を宣言することにはためらいを感じることだろう。
 それは論者の言う「ためらい」と同じ性質のものではあるだろうけれど、少なくとも私にはそのためらいは裁判員全員で話し合って決定することでも、合意までは判決を出すべきではないことではないと思うのである。もしそうしたためらいをも現行法の下で合議によって結論を出さなけれぱならないのだとするなら、「法的に死刑」であっても死刑にできないことになってしまうからである。

 死刑廃止を法として定めるのなら、それはそれで一つのシステムである。だが死刑が法的に定められているにもかかわらず、しかもどこから判断しても死刑が相当であるにもかかわらず、裁判員の死生観によって判決が出せないのだとするなら、それは現在の法制度の否定であり同時に三権分立の死だとも思うからである。

 ただそうした結論を人が出すのはとても重たい。もしかしたらそうした判断を「国民だから」と言う一言で、裁判員に委ねるのは重過ぎるような気もする。もちろん制度なのだからそれに従うのは当然かも知れないけれど、抽選で選ばれた法律とは無縁の裁判員にそこまでの責務を負わすこともまたどこか苛酷なような気がしている。
 もちろん裁判員裁判は一審のみであり、恐らく死刑の判決はそこで決着することはなく、専門家たる裁判官の審理による控訴、上告へとつながっていくことだろう。だからと言って一審の判断への重さが軽くなるわけではない。ましてや裁判員が「どうせ二審できちんとやってくれるだろう」などの思いを抱くのだとしたらそれこそ裁判員制度の崩壊にもつながりかねないことになる。

 人はどこまで死刑と死生観とを切り離して考えることができるか、死刑制度が法制度として存続している以上、どこまでも付きまとってくるこの問題に人はどこまできちんと向き合っていくことができるのだろうか。



                                     2010.8.6    佐々木利夫


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