子供ってのは時にあまりにも残酷に正鵠を射ることがあるんだなと、思わず苦笑いをしてしまった。これは最近の新聞に載っていた一文である。
「神社のおさい銭は神様に届くと聞いたので、パパに質問した。『神様はお金が欲しいの?』」(秋田市、5歳男児、2010.7.12、朝日新聞「あのね」)
そうなのである。洋の東西を問わず神様は「お金が大好き」なのである。もちろん最初はお金が目的ではなかったかも知れない。「捧げもの」に食べ物を求めたり、時に「いけにえ」として生きた動物を必要とするなど、神様も最初のうちは食料などを信者と共有することで自らへの信頼度を確かめることに満足していた。
だが次第に神様は、それだけでは満足しなくなってきた。自らへの信仰の強さこそが神そのものの力であることを確かめたくなってきたからである。そして信仰の強さを表す一つの表象として信者の数があることに気づいてきた。信者の数の多いことこそが我が力の大きさの表われであり、そのまま神の持つ力の大きさそのものであることを確信したのである。
さて信者の数とは、ある人が家庭や仕事場などの日常で特定の神に結びつく偶像なり教義を密かに信じている者の数でいいはずである。むしろ人びとが自らの生き方を確かめる手段として、宗教とは本来そういうものであっただろうからである。だが神様はそんなことでは信者の数をきちんと確認することはできないのではないかとの疑問を抱いた。そして自らの力を目に見える形で確認することができないことに不満を抱くようになった。
信者の数を確かめられる方法を模索した神は、一番簡単な方法として信者を一同に集めることに気づいた。「私を信じているだろう人の数」を密かに想像しているよりは、一箇所に集めその人数を数えることのほうがずっとずっと確実だと気づいたのである。
さてそうしたときに一番問題となったのは、そうした場所の設営であった。数人、数十人、数百人と仮に信者が増えていくとしたとき、それだけの信者を収容する場所が必要となってきた。
それを道場と呼ぼうが、神社、教会、堂宇、モスクなんとでも呼ぼうが、集団を収容する場所が必要となってきた。しかも、しかもである。その場所は単に場所として存在しているだけではどこか物足りない。野原のテント張りの中に集めるよりは、より立派でより目立つ施設こそがふさわしい。そうした場所で私をあがめる人びとの姿を見ることのなんと誇らしいことか。そう思った神は、次にその場所を作るために膨大な金が必要となることに気づいた。信仰の証を確かめるためには広場や建物を作る資金を集める必要があることに神は気づいたのである。
それから後の欲望は止まるところを知らなかった。大伽藍、大寺院、何と呼ぼうと豪華で金ぴかに飾られた建物は、建物そのものの存在自体が「私」つまり「神である私」への信仰の表われである。よりきらびやかに、より高く、より広大に・・・、神の欲望は膨れ上がりその満足への意識は止まるところを知らなかった。
欲望や満足はやがて建物だけではなく、神を維持する専門職と言った階級の存在を生んだ。つまり神への距離を示した階級の創設である。そしてそこにも神は金の介入を認めることとした。それは衣装、備品などに止まることなく、冠婚葬祭などの人の係わる多くの行事への介入を画策することで、神は金を巡る様々へ自らの勢力を拡大していくことにしたのである。
やがて神はついに天国や浄土と呼ばれる世界まで切り売りするような不動産業まがいの金儲けにまで奔走するようになった。つまり信者から金銭の寄付を受けることにより、その多寡で天国への距離を示唆し、場合によっては「天国での地位」まで売買するようにした。
私はそうした具体例をきちんと調査したことはないから、こうした話には聞きかじりや思い込みによるものが多いかも知れない。それでも霊魂の罪は本来、祈りであるとか善行を重ねることでその償いが行えるはずではなかっただろうか。だがキリスト教の神はそうした祈りを免罪符として金銭に化体させることを考え付いた。仏教や神道でも同様である。戒名は金銭の多寡によって階級が分けられるようになり、商売繁盛や家内安全、果ては受験合格や自動車事故に遭遇しない祈願などにまで介入し、あらゆる願いの成就を賽銭や寄付の多寡を要件とした。
それらは神の責任ではなく、たずさわっている人間の欲望のなせるものだと言うかも知れない。それはそうだ。金の問題の背景には常に人間が係わっているし、神への仲介は特定の神職の専属の役目になっているからである。
だが神はその仲介に自らなんの異を唱えることもしなかった。確かに免罪符は宗教改革により消えることになったけれど、それは神自身の力によるものではなかった。神の無関心に嫌気の差した信者たちの多くが改革を望んだからである。葬式における僧侶の傲慢とも言える費用の請求、初詣で投げ込まれた賽銭を一生懸命数えている神職や巫女たち、捕まらない賽銭泥棒に向かって「神罰が当たる」などと豪語する神主などなど、それらはすべて人の行動であり神の姿ではない。しかし、自らの名を利用されながら放置している神の姿勢もまたそれらと同罪である。
「原始宗教」なんて呼んじまったら、どこか軽薄さや軽蔑の視線を抱いているかのような錯覚を与えるかも知れないけれど、アフリカや、例えば昨年末から新年にかけて読んだレヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」に現れているアマゾンの種族などに見られるような、ひたすら祈るだけの神の存在のほうがずっとずっと本物の神のように思えてくる。たとえそれを神や仏、更には精霊などと呼ぼうが、神は人の日常に深く信仰として関与していたように思える。今になって神は金の価値を知った人間に愛想を尽かしてしまったのだろうか、それともそうした人間には手が出せないと思えるほどにも人は傲慢になってしまったのだろうか。
人が金にまみれてきたのは貨幣経済を生み出したことの必然なのかも知れないけれど、人は神の存在を宗教、そして儀式へと変貌させる過程の中に「金銭」を深く深く紛れ込ませてしまった。そうした気配を子供は敏感に感じ取っているのかも知れない。
「神様はお金が欲しいの?」の一言は、私たちがすっかり失ってしまっている神への畏敬を鋭く衝いているように思える。
ニイチェはその著書「善悪の彼岸」の中で「神は死んだ」と言ったけれど、現代の神職や僧侶たちはその死骸にまだしがみついたままである。神を必要とし、祈りの対象としての復活を望んでいる数多くの人たちが世界中にあふれているにもかかわらず、そうした人たちを放置したまま・・・。
2010.8.19 佐々木利夫
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