三権分立が一国の制度として望ましい究極の姿なのか、私にはそこまで論ずるような知識は残念ながら持ち合わせていない。それでも立法、行政、司法がそれぞれ独立して機能するようなシステムは、少なくとも現在の世界の国々の成立している基盤を考えると、今のところ有効に機能しているように思える。

 もちろん立法である国会は政治家に委ねられていて、全部が全部ではないにしても様々な腐敗が取りざたされている事実を知らないではない。またこれまで仕事としての生涯を税務職員としていわゆる「行政」に捧げてきたこの身にとって、官僚と呼ばれるまでの地位には届かなかったものの世上論を賑わす官僚パッシングに表われる様々には多少異論はあるにしても頭から否定するつもりもない。

 ただ、司法についてはこれまでも色々ここへ書いてきたところではあるが、私がもっとも信頼を寄せる分野であった。たとえある人が司法にかかわることが生涯なかったとしても、司法という判断の砦の存在が社会をまっすぐにしているのではないかと信じているからでもある。

 だがその司法が今や大きく揺らいでいる。もちろんこれから書こうとしていることは司法全体のシステムの話しではなく、単なる個別事例のいくつかの積み重ねでしかない。どんな分野にだって誤りはあるのだから、個別の事件をあげつらって全体を非難するのは筋違いだとする意見の分からないではないし、そうしたことは行政に身を委ねてきたこの身の経験からしても実感できることでもある。つまり、一人の収賄に係わった公務員がいたとしても、そのことで職場や組織全体が悪者扱いされるのは心外であり、それはその一人が公務員だけでなく、商社員や町内会長であろうとも同じことである。
 それでも一人が二人となり、三人になっていくとしたら、そこにはその組織全体に対するある種のイメージが形成されていくことを否定することはできない。

 私が司法のゆらぎを感じたのは足利事件がきっかけだったかも知れない。殺人による無期懲役が最高裁でも確定した事件の再審が、当時のDNA鑑定の不備から現在の鑑定方法によると被告人とは別人のものだとされ、一転無罪となった事件である。DNAにしろその他の証拠の評価にしろ、そこに間違いが存在すること自体をを責めるつもりはない。ただそうした評価に沿うようなシナリオを警察も検察もあらかじめ作り上げてしまい、そのシナリオに沿った自白の強要や証拠の採否をしてしまうこと、そしてそのことに裁判所もそのまま乗っかってしまったことにどこかやり切れなさを感じたのであった。

 それでもまだ私の中には、自分の科学好きの性格が強いからなのかも知れないけれど、事件当時のDNA鑑定をそのまま神託のように信じてしまっただろう司法の勇み足をどこか理解できるような気がしていた。もちろんそうした思い込みが特に司法の場では許されないであろうことは言うまでもない。それにもかかわらず私の中ではまだ、当時のDNA神話に振り回された司法関係者に多少なりとも同情できる点を感じたことは否めなかった。

 ところが最近、とてつもない事件が持ち上がってきた。検察による証拠の捏造である。警察や検察は、事件の入り口に絶対的権力を持つ捜査機関として君臨している。そのことを私は批判するつもりはない。時に弁護士の被告人に対する接見でさえ制限するほどの力を持っていたとしても、犯罪捜査の手法として認めていいと思っている。
 検察のバッチは「秋霜烈日」をモチーフとしていると聞く。何者にも影響されることなく孤独の中で正義を探し出す使命を表しているとされているからである。だからこその絶大な権力付与である。

 仕事も含めた私の人生への思いの中に、「事実の認定は証拠による」(刑事訴訟法317条)があることはこれまで何度もここへ書いてきた。そして警察も検察も、そして裁判所も「法と証拠」のみに基づいてすべての犯罪の捜査をし審理する機関である。国民が犯罪捜査の入り口にこうした強大な機関を置いたのは、それだけその権力に信頼を求めたからである。証拠による法の正しい執行を司法に求めることが正義だと国民が信じたからである。

 その検察官が証拠を捏造した。ことの発端は厚労省の局長が部下に命じて障害者団体に対する郵便料金の割引き認定制度を悪用して非該当団体に偽りの許可書を発行させたとして逮捕された事件である。ここではその捏造の詳細を述べないけれど、概要はその部下が偽造した書類を保存してあったフロッピーディスクの作成時期を特別なソフトを使って検察のシナリオに沿うような日付に変更したと言うものである。しかもその捏造は当該事件の主任検事その人だったのである。
 最強の権力を持つ検察官が証拠そのものを捏造し被疑者を有罪とべく起訴する、こんな恐るべき事実が分かってきたのである。

 さてこうした信じられない事実が世上を賑わしている最中に、またまたとんでもない事実が発生した。尖閣列島で不法操業し海上保安庁の監視船に体当たりして損害を与えたとして中国船舶の船長が公務執行妨害で逮捕されるという事件が起きた。尖閣列島付近は数年前にも「魚釣島の領有権」として書いたとおり中国、台湾の三者で領有権を巡ってもめている海域である。

 ここでこの問題を取り上げたのは領有権について書きたかったからではない。こうした紛争が背景にあった上に、中国政府から船長の解放要求や間接的ではあるがレアアース(ハイテク技術に必要な希少土類のことで、90%以上を中国に依存しているらしい)などの輸出制限や中国で視察していた日本人が軍事基地へ侵入したとして逮捕されるなどの問題が重なってきて、どこかきな臭い日中の外交問題へと発展していっている。
 中国の主張のどこまでが正しいのか、今後どのように対処していくべきなのか、まさに政府の外交問題として解決を求められる事態になっていた

 そうした矢先に突如として那覇地検はこの中国人船長を処分保留のまま釈放した。そのことはいい。検察が拘留を継続するか立件するか釈放するかは、法に基づく限り正当な行為だからである。ところがこの地検の次席検事が釈放の事実をマスコミに発表した内容がどうにも腑に落ちないものだった。

 内容は縷々あるが私がどうにも理解できなかったのが釈放の理由であった。その要旨は次のようなものである。

 「・・・引き続き被疑者の身柄を拘留したまま操作を継続した場合の我が国国民への影響や今後の日中関係を考慮すると、これ以上の身柄の拘束を継続して捜査を続けることは相当でないと判断した。被疑者の処分については今後の情勢を踏まえて判断する。この件については本日、福岡高検及び最高検と協議の上で決した」(2010.9.25、朝日新聞)。

 この理屈はどうしたって変である。検察の仕事は法と証拠に基づいて被疑者を起訴(または不起訴)にすることにある。「国民への影響や今後の日中関係への考慮」「今後の情勢を踏まえての処分」などは検察が判断すべきことではない、むしろ「してはいけない判断」なのではないかとすら思えるからである。検察は自らの行動規範である「法と証拠」をいともあっさりと放棄してしまったのである。
 公判を維持するだけの犯罪事実の証拠がないとか、はたまた可罰するまでの違法性は認められないなどを理由とするのなら、釈放することになんの異論もない。だが検察の掲げた理由はそうではなかった。国民への影響、今後の日中関係などの情勢は犯罪事実、そしてそれに対する刑罰の賦課とはなんの関係もないからである。

 私はそうした判断が不必要だと言いたいのではない。対立しているのは容疑者と検察と言うにとどまらず、中国対日本という国対国の問題にまで及んでいるからである。だから外交として必要と認めるのなら、超法規的な措置として釈放するようなことがあってもいいと思っている。だがその判断は検察にではなく政府の外交としての権能なのではないだろうか。政府だけに認められる政治としての力なのではないだろうか。少なくとも「法と証拠」に基づいて判断をすることを使命とする検察の仕事ではないと思うのである。私には検察は自らに課せられた使命を自らの力で否定したように思えるのである。

 私は政府もまたこうした判断を下した検察の行動を非難することなく、寧ろ「尊重する」かのような発言を繰り返していることに落胆しているのである。「釈放が高度な政治判断であったことは疑いがない」(10.1、朝日新聞社説)との思いはそうした思いが私だけでないことを示している。政府は寧ろ権限を超えた判断だとして検察を批判すべきだったと思う。それが仮に政治的に了解できる結果だったとしても、検察が下してはならない判断だったと非難すべきではなかったかと思う。

 私は最初このエッセイのタイトルを「死んだ司法」とした。それほどこの二つの検察の事件にショックを受けたからである。そして検察の陰に隠れて自らを表に出そうとしない政府の姿勢にも悲観しているのである。「今の世の中どうなっとるんだ」との思いは、もしかしたら単なる年寄りの繰言かも知れないけれど、どこか日本そのものが行き先不明になって雲の中をあてどもなく漂っているように思えてならない。

 なんの力もない単なる年寄りの嘆きである。昔から年寄りは何かにつけて世の中にいちゃもんをつけたがってきたのだから、これもまたそうした繰言の一つなのかも知れない。それでもやっばり日本にはいつの間にかしゃきっとした背骨が見えなくなってきているように思えてならない。
 まだ決着はついていないけれど、先に書いたフロッピーディスクの日付を改ざんした事件は主任検事個人の犯罪から当時の上司であった特捜部長や副部長(ともに犯人隠ぴの罪で10月1日に逮捕された)を巻き込んだ組織ぐるみの様相を呈してきた。司法を信頼の砦として心のどこかに位置づけていた私にしてみれば、今回の検察の事件はまさに「ブルータス汝もか・・・」を重ねるものになってしまったのである。


                                     2010.10.2    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



堕ちてゆく司法