4月になって、NHKにも新番組が増えてきた。そんな中に、「テストの花道」と題して大学を狙う受験生を対象にした、「入学試験の合否を決める考える力を身につけるノウハウ教えます」みたいな番組があった。「要約する力」だの「情報を読み取る力」などと言ったけっこうおどろおどろしいサブタイトルをつけるような意気込みの番組である。その中でこんな場面が放送されていた。既に受験とはまるで縁遠くなってしまっている我が身だから、それほど熱心に見ていたわけではないのだが、学生らしい数人の参加者に一枚の写真がメールで送られ、その写真を見て思いついたことを報告せよと言うような内容であった。

 送られてきた写真には水辺近くの芝生の上で、花で編んだリングを頭に載せ微笑んでいる小さな女の子の姿があった。この写真を送られた生徒たちは、様々な感想を同じようにメールで主催者へ送り返した。何も特別な指示をされていなかったらしい生徒たちは、「海の見える草原」、「タンポポの王冠」、「お母さんに向かってにっこり」などなど、自分の感じた状況を細かに報告していた。

 さて報告が終ると次なるメールが入る。どんな言い方のメールだったか忘れてしまったが、要するに報告した感想の個々の内容について、その確認できる程度に応じて一つ一つの状況に〇や△や×などの採点をつけよと言うのである。
 水辺は写っているけれどそれが海だと分かる状況にはないので、「海辺」としたのは誤りである。女の子は確かに微笑んではいるけれど、撮影者が母であることは写真のどこからも推測できないので、「お母さんに向かって・・・」とした状況設定も当然誤りということになる。頭のリングも花で作られていることは分かるけれど、その花がタンポポであることまでは不明であるなどなど・・・。

 こうして生徒各人がそれぞれ自分の送った状況説明の個々の事実に対してその確認結果を評価していく。生徒が送ったメールのかなりの部分について△や×がついた状況が報告される。その報告に対して質問を出した側がチエックしながら、△や×のような状況(つまり確認できない情緒的な思い)を考えること自体が試験問題を正確に読み取るための邪魔になると説く。つまり事実確認を正確に読み取ることが正解への近道であるとの解説である。
 私はその解説の適否を知らない。専門家が専門家として生徒のみならず視聴者にもオープンに放映しているのだから、正確かどうかはともあれそうした情緒的な部分を削ぎ落としていくことが、決められた時間内に回答しなければならない試験場では大切なのだと主催者が信じていることに違いはないだろう。

 ただこのテレビを見ていてかつてこんな話を聞いたことがあるのを思い出した。何かの本で読んだように記憶しているので、けっこう有名な話かも知れない。
 それは小学校で、少女の書いた作文を先生が手直ししたと言う話である。少女は「うさぎの耳は赤い」と書いたにもかかわらず、その先生はいともあっさりと「うさぎの耳は長い」に添削してその少女に返したというのである。

 その少女にとってのうさぎの耳は、長いことも感覚としてはあっただろうけれど同時に赤かったのであり、むしろ赤いことの方が強く感じられたのだと思うのである。それを先生は自らの感覚に従って「長い」とした。うさぎの耳の内側は、毛細血管が透けて見えるのでほんのりと赤いのである。少なくとも先生は、そのほんのりとした赤さを知らなかったのである。
 私はその少女が「赤い」との表現を自らの気持ちに反して封じ込められたと感じ、内心にしろ「赤い」にこだわり続けたと言うのならそれはそれでいい。だがもし仮に、先生の言うことなのだからその意見に従おうと思ってしまったのだとしたら、その先生は少女の持つ繊細で豊かな感性を土足で踏みにじったのと同じことになるのではないだろうか。

 私はこの写真を見て感想を書くという番組から、うさぎの作文と同じような感想を抱いたのである。もちろん場面は違うだろう。作文ではなく受験対策として試験問題を読み解くというコンテンツのもとにこの番組は作られているのだから、そうした意味ではいわゆる「試験以外の余計なことなど考えるな」との発想を一概に否定するわけにはいくまい。
 だがそれにしても受験勉強と言うのは、現代においては若者の人生における青春という重い一時期と共有している。試験そのものは数日と言う短期間かも知れないけれど、そのための勉学という姿勢は場合によっては若者のこれからの人生観を育てる時期とも重なっているのではないかと思うのである。

 こうした人生観を育くんでいく大切な時期に、この受験対策のように人の感性を削ぐような考えを刷り込んでいくことには、たとえそれが試験問題を正確に読み取る手段になるのだとしても、どこか納得できないものが残る。

 これもNHKの番組だが、山間の渓谷で電車を走らせている若い運転手と、その後ろで指導している退職間際の老運転手の姿があった(4.10、世界遺産への招待状)。その老運転手は新米の運転手に向かってこう話しかける。「いつも注意を怠らずに・・・」。そのことは良く分かる。でも彼はその言葉の前にこんな一言を付け加えたのである。「山を敬い・・・」
 人は時に自然に挑戦することだってあるかも知れない。だがこの老運転手が伝えたかったのは、自然に対峙するとは闘ったり、なだめたり、征服したりすることではなく、静かに敬うことだったのである。

 まず試験に合格して希望する大学に行かないことには、「その後の就職や結婚なども含めて私の人生はお先真っ暗」との気持ちを一概に否定しようとは思わない。だがどこかで乾いてしまった感性は、なかなかどうして再び戻ってはこないような気がしてならない。「畏れる」とか「敬う」と言った感性は、少しずつでいいとは思うけれど忘れずに水をやってないと、知らぬ間に干からびてしまうのではないだろうか。



                                     2010.4.16    佐々木利夫


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削がれていく想像力