前代未聞の不祥事で大相撲が揺れている。来場所(夏場所・名古屋場所)の開催が危ぶまれる事態にまで陥っているからである。

 原因は力士による野球賭博問題である。野球に興味がないので、どんなふうに野球に対して賭博が行われるのかまるで分からないけれど、それでも数十万、数百万と言う金が動くらしく背後には暴力団の関与も疑われている。問題は賭博に関与した力士個人の処分をどうするかを超えて、賭博が力士仲間に蔓延している状態やそれを把握できなかった(もしくは知っていて知らん振りをしていた、更には自らも参加していた)親方や業界などの資格や制度に対する疑問、更にはこうした事態の発生に的確に自浄能力を発揮することのできなかった理事会や役員会などの体質にまで話が及んでいる。

 もちろん賭博のみならずこれまでに多々問題にされた稽古に名を借りた部屋のいじめや暴力体質、自らの暴力事件が疑われて引退した横綱朝青龍事件、力士仲間に広がっていたマリファナ吸引、更には最近発生した土俵のすぐ回りの桟敷(維持員席・特別に高額な寄付をした者などの協力者に割り当てられる特別席)の入場券が本来なら認められていない暴力団員に配布されていたことなどが尾を引いているであろうことは当然である。

 今もそうだけれど、子供の頃も野球はあんまり好きでなかったから選手の名前などほとんど覚えていない。それでも相撲はそれなり好きだったらしくラジオの中継放送に齧りついていた記憶があるし、力士の名前も多少は残っている。それは例えば伝説の人気者雷電為衛門などもあるけれど、やや歴史的になっていた双葉山などのほか、その当時の現役力士にもけっこう力を入れて応援していたような気がしている。例えば鏡里、名寄岩、朝汐、千代の山、大内山、青葉山などと言った四股名はすぐに浮かんでくるし、少し長じては栃錦、大鵬、柏戸などの名も記憶の糸につながってくる。

 東京で一年間の研修を受けたのは32歳くらいだったから既に40年も前の大昔になるけれど、国技館へ観戦に行ったことがある。ファンと呼ぶほどの熱心さではなかったにしても、まだ好きなスポーツだったように思うし、丁度その日が昭和天皇の天覧試合の日だったことも覚えている。それが今ではまるで興味を失ってしまっているのはどうしたことだろうか。

 時に見るテレビ中継では「満員御礼」の札がかかっていることも多いし、土俵の周りの席もほとんど埋まっているので、相撲は未だ人気の高いスポーツだと言ってもいいのだろう。だから「大人になると自然に相撲から離れていく」との発想は誤りだと思う。だとすれば、私自身の気持ちが相撲から離れていったことになる。さて、その原因は相撲にあったのか、それとも私自身の興味の変化によるものだったのか?。

 それでもかつての相撲の人気には到底及びないような気がする。恐らく原因は相撲、現代人双方にあるのだろうし、それが今の時代なのだと言ってしまえばそれまでのことだけれど、そうした時代の変化についていけない人の増加が相撲人気低迷の背景にあるのではないだろうか。もちろんその中に私自身も含めてではあるが・・・。

 そうした変化の一つに外国人力士の増加がある。興味がなくなってから大相撲中継などを見る機会はほとんどなくなってしまっているけれど、それでも場所中はテレビを通じて様々な取組みを見せられるから好き嫌いにかかわらず見てしまうことになる。もちろん野球と同じように教育テレビなどへとチャンネルを換えることもできるけれど、どこかで相撲好きだった子供の頃の記憶が残っているせいかついつい見てしまうことが多い。

 さてそうした番組はどうしても中入り後などの終盤戦が多くなるのだが、そうした時取り上げられる力士の出身地の紹介に驚くほど外国地名が多いのに気づく。極端に言ってしまうなら、上位力士の全部が外国人のような気持ちにさえなってしまうのである。
 私の記憶する子供の頃の力士には、どうも外国人はいなかったような気がする。一人もいなかったかと言われればそこまでの自信はないけれど、昔から力士の出身地の紹介は県単位でそこに外国の地名が出てきたような記憶はまるでない。

 相撲に限らず野球や柔道などにも日本の選手として活躍する外国人選手が増えてきている。それは世界中が人種としても流動化しているのだから、その表れだと言ってもいいだろう。だがしかし、こうした外国人選手の増加にはどこか「相撲は国技」と言う側面から見て、すっきりこないものを感じてしまう。おそらくそれは私の「日本人」という観念の狭隘さからくるものなのかも知れない。私はどこかで日本人を数世代を経て日本に住み着いた人種に限定して理解しているのかも知れないからである。それはまさに鎖国などを通じて外国と没交渉で閉鎖的だった日本の歴史からきているのかも知れない。
 そうした理解が間違いであろうことを分からないではないのだが、たとえ日本国籍に帰化したとしても、青い目の外国人は、私の中ではなかなか「国技に取り組む日本人」にはなっていかないのである。

 スポーツは勝つためにあるのかも知れない。南アフリカでのサッカーのワールドカップのニュースが世間を賑わしているが、これもまた「いかに勝つか」がテーマになってる。サッカーに限らず強くなるため、強いチームを作るためにより優秀な選手を採用することは止むを得ない現実であることが理解できないではない。だが、私には例えば相撲であるとか柔道などの日本固有(たとえそれが国際的に広まってオリンピックなどの種目などになったとしても)のスポーツにあっては、それを日本人として挑戦するからには外国人を日本人と同じように扱うシステムにはどこか違和感を覚えるのである。

 それが例えば数十人のグループの中での一人や二人と言うならまだしも、現在の相撲のように上位力士のほとんどが外国人であることを認めるようなシステムは、しかも日本の国技とも言われるような中ではやっぱりどこか変なような気がしてならない。

 そしてこれもまた私の偏見ではあるのだが、「男は無口」みたいな姿勢が定番だった相撲界にあって、テレビカメラにペラペラと弁舌さわやかな力士の増加もまた、私を相撲から遠ざける原因になっているような気がしている。

 さて、それに加えて今回の野球賭博の不祥事である。私には賭博の全容は分からないから、関与した力士個人の処分に留めるべきなのか、それとも相撲業界全体の責任として部屋や理事会などの組織の解体や、場合によっては名古屋場所などのそのものの中止や延期まで考えるべきなのかの判断はつかない。
 ただ、名古屋場所の中止を巡って、中止反対の意見のなかに「まじめにやっている力士のためにも・・・」であるとか、「興行には賭博に関与した力士以外の多くの者の生活もかかっているので・・・」などの意見もあった。そうしたことは賭博の実態との軽重を客観的に判断して、身内だけでなく外部の意見も取り入れて決定すべきものであるだろう。

 ただそうした意見の中に一つだけ、「力士の賭博に関連して名古屋場所を中止することは、暴力団の脅迫に屈することになる」と言うのがあった。この意見にだけはどうしても私は与できないと思った。どこがどうなったら、賭博にまみれた相撲界の責めを場所中止と言う形で始末することが、暴力団に迎合する結果を招くことになるのかがまるで理解できないからである。

 ともあれ、今回の野球賭博によって相撲の人気はいよいよ低くなるだろうし、それにつれて私の興味もさらに一段と低下するだろうことは否めない。こんなことを言っちまったら冤罪そのもになってしまうかも知れないけれど、この問題は野球賭博だけにあるのではないと思う。麻雀や花札そして競馬競輪、野球以外のスポーツにまで賭博のシステムは及んでいるのではないか、暴力団との関係だって賭博に限らず興行の仕切りや日常的な付き合い、強いては「タニマチ」と呼ばれる取り巻きとの関係などにもメスを入れなければ相撲界の不祥事は解決しないのではないかなどと余計なことまで考えてしまうのである。



                                     2010.6.26    佐々木利夫


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大相撲が危ない