7月13日の参議院選挙で与党の民主党が、非改選議員を含めても過半数の議席を獲得することができなかった。昨年9月の衆議院選挙でそれまでの自民党政権を逆転させたばかりなのに、一年を経ずしてその神通力は消えかけてきているようである。もちろん衆議院はまだ民主党が与党として健在であり、参議院を含めても議員数全体としては民主党が多数を占めていることに違いはない。

 ところで国会での議決は基本的に「特別の定めのある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決」することとされているから(憲法56条2項)、多数決によって決めることになっている。しかも「法律案は、・・・両議院で可決したとき法律となる」(同59条1項)のだから、国会の最高の権能である立法を実現させるためには衆議院と参議院の二つによる可決がどうしても必要になる。

 だが民主党は衆議院では過半数を占めているものの参議院では不足しているから、このままの状態では立法の機能が停止してしまうことになる。もちろんこうした事態に備えて衆議院での判断を優先させる規定の存在がないではない。ただその優先権が認められるためには衆議院・可決、参議院・否決に次いで衆議院による再可決の手続きが必要とされ、しかも再可決のためには3分の2の議決数が必要とされているのである(同59条2項)。

 しかしながらこの3分の2の議決数を民主党は持っていない。つまりこのままでいくと一部にしろ野党が賛成しない限り提案する法律案はそのことごとくが成立しないことになり、国会の機能が事実上停止してしまうことになるのである。巷間、こうした状態を「ねじれ国会」と呼んでいる。ただし予算案だけは衆議院の過半数で成立させることができるけれど(同60条2項)、予算が成立しても支出すべき法令が整わないままだと有名無実になってしまうことも多いだろう。

 さて、選挙が終ったばかりのせいもあるだろうが、民主、自民、公明、共産、民社、国民、みんなの党などなど、政党はそれぞれに異なった主義主張を持ち、どうしても互いに他党を批判する立場にあるので例えば一つの立法においてもその内容のみならず政治上の駆け引きなどもからんですんなりと話し合いの場などの成立が難しくなってきている。
 こうした事実上の機能停止に対応するため、個別の法律案に対して個々の政党と妥協点をさぐって賛成してもらう党を増やしていくことで過半数を得るという方法もあるが、手っ取り早い方法としては連立を組む手段もある。つまり連立してくれる政党にいくつかの大臣ポストなどを提供し、連立全体を一つの与党として国会に望もうとする方法である。

 連立を組むことで仮に参議院で過半数を得るか衆議院単独でも3分の2の議決数を得ることができれば、なんとかねじれ状態を脱することができることになる。そのための模索が現在呼びかける側にも呼びかけられる側にも、様々な思惑を生んでいるようである。

 閑話休題。これまで述べたように、基本的に国会における立法は過半数の議決によって成立し、その過半数とはまさに多数決を意味している。賛成か反対かについての判断を個々の国会議員の挙手なり起立なり投票に委ね、その数が反対意見よりも一票でも多い時は賛成多数としてその法律案は成立し、一票でも足りない時は反対多数として否決されることになる。

 ところでこうした多数決による決定に疑問を持つ人がいる。「多数決は本当に正しい手段なのか?」、彼等はそうした疑問を投げかけ、時に「多数決は数の暴力である」とも主張する。
 私はそう思いたい気持ちをまるで理解できないと言うのではないけれど、結論としては間違いだと思っている。多数決は正しい結論なのだと信じている。いやむしろ、多数決以外の方法で決定してはならないとすら思っているのである。それは単に「憲法でそう決められているから」と言うだけのことではない。民主主義の基本として、そして国民主権の実現の場としても多数決での決定を正しいと信じているからである。

 「多数決は正しいのか」や「数の暴力だ」との意見の存在を知らないではないが、私が思うにはそれは多数決で敗れた少数者の側の意見なのではないだろうか。そうした意見は個人または団体として自らの側の主張が容れられなかったことの裏返しになっているだけにしか過ぎないのではないだろうか。
 少数意見の立場にあるからと言って、そうした意見が単に相手に逆らうための、いわゆる「反対のための反対」であることは少ないだろう。それなりに研究し検証し正しいと信じたからこそその議員立法なり反対意見なりを国会の場へと持ち込んだのだろう。だからそうした意味ではそうした意見を立案者が正しいと信じて提案したであろうことを否定はすまい。だがその意見が多数決で敗れた。こんなにも国民のために良かれと信じて立案したにもかかわらず、多数の反対意見のために敗れた、もしくは相手の提案が間違いだと信じて反対したにもかかわらず意に沿わない法律が成立してしまった、そうした悔しい思いを理解できないではない。

 しかしながら多数意見は結果として国民の意見なのだと思うのである。少数者にとってどんなに許されないと思えるような意見であっても、国会議員の議決は国民の意思そのものの擬制である。だからたとえその意思に反対の立場にあろうとも、その決定に従うのが国民としての義務だと思うのである。

 国の施策を決める方法として、古代ギリシャでは国民全員(と言っても奴隷は除かれていたが)による直接投票があったと聞いているが、現代は恐らくすべての国において国民の代表を選挙で選びその者に国民の意思を擬制させる間接投票を採用している。あらゆる法律の制定に国民がすべて個別に投票することなどは不可能だろうからである。

 もちろんこうした方法にも難点のないではない。ある人を国会議員にふさわしいとして投票し当選したとしても、それが投票した個人のすべての意見を代表している保証などないからである。その議員は様々な法律に賛否の投票をする。だがその賛否が必ずしも私の賛否と100%一致するとは限らないからである。むしろ反対意見に一票を投ずる場合だってあるだろうからである。

 でもそれが私たちが選択した間接選挙による民主主義なのである。国民による選挙結果による国会での様々な決断が、投票した国民の総意と完全に一致している保証は必ずしもないけれど、国民自らが直接政治に参加することの費用なり手数なりとの比較において最も妥当と考えたシステムとして世界中の人びとが選択したのである。しかも仮に国民に国の方針を直接求めるような国民投票を選択したとしても、その結果の採否は過半数にしろ4分の3にするにせよ、結局は多数決によらざるを得ないであろうことも含めてである。

 さてそうは言っても多数決には守らなければならない基本的な約束がある。その一つは、少数意見に対する聞く耳を持つことである。反対意見にもきちんと耳を傾け、十分審議を尽くすことである。もうかなり昔のことになるけれど、アメリカ映画「12人の怒れる男」を見たことがある。12人の陪審員の一人が父親殺しで起訴された少年の有罪に疑問を持つところから、やがて全員が無罪の評決をするまでのまさにサスペンスの物語である。早く有罪の評決を出して開放されたいと願う陪審員が多数を占めるなかで、一人の疑問が二人、三人へと広がってゆく。そうしたドラマの中に少数意見に時間をかけて耳を傾けていくことの大切さがひしひしと伝わってくる。

 だから民主主義は結論を出すまでに時間がかかるのである。少数意見にも十分に耳を傾けると言うことはそのための時間を費やすことであり、結論がそれだけ遅くなることでもある。「少数はときに多数を説得できる」、だからこそそうした説得の機会を十分に与えたことによる多数決による結論を、私たちは国民の意思として認めることにしたのである。
 もちろん神に選択を委ねることだって可能かも知れない。場合によってはカリスマや英雄や国王などに国民の意思や判断を委ねることも可能であろう。だがそうした一人または小数者による判断を私たちは独裁と呼び、時に独断と呼んでその判断を国民の手に取り戻す方法を長い歴史の中から学びそして獲得してきたのである。

 その結果が選挙であり国会なのである。だから私は時に結論を得るまでに時間がかかり、仮に自分の判断と異なる法律が成立したとしてもその結果を受け入れること、つまり多数決に信頼を置くことが少なくとも今以上に適切なシステムが開発されない限り、正しい選択として従うべきだと思うのである。

 ただ、運用に当たって一つだけ私にも気に食わないことがないではない。それは政党が所属議員の意思を党の意見に統一する党議拘束である。国会議員は有権者個人の投票によって当選したことに違いはないけれど、だからと言って投票者の利益を擁護するものではない。衆議院も参議院も共に「全国民を代表する選挙された議員」で構成されているのだから(同43条1項)、一人ひとりの議員は決して選挙区や投票してくれた選挙民の代表なのではなく全国民のための国会議員でなければならないからである。

 それにもかかわらず、仮にもせよ自らの意思に反して「党議拘束」ゆえにその議決権を行使することがあるのだとしたら、それはまさしく選挙の目的に反する行為であり強いては憲法の理念にも反する行動ではないかと私には思えてならないからである。

 もちろんこれ以外にも気になる点のないではない。例えば一票の格差である。今回の参議院選挙で、当選者の得票数が最も少なかった鳥取県と最も多かった神奈川県とを比較すると実に5.00倍の格差になり、東京都では4.37倍だと言われている(7.22、朝日新聞)。これを踏まえて早速選挙無効の訴訟がいくつか提起されたようだが、2007年の参院選に関して最高裁は4.86倍の格差をかろうじて有効と判断したけれど、これほどの格差には私自身としてもどうにも疑問が残ってならない。
 また芸能人などの著名人が比例代表における政党の顔として立候補する例も多かった。有権者も選挙は人気投票ではないのだから、一票の重さを十分に認識して投票場へと足を運んで欲しいものである。


                                     2010.7.22    佐々木利夫


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多数決は正しいのか