人の怒りはそれぞれだから、その大きさや矛先についてとやかく言うべきではないだろう。だがこうした怒りが新聞への投書のような形で公開されてしまうと、どこまでそうした怒りに客観性があるのか検証してみたくなるのは私の悪い癖かも知れない。

 「トイレで手洗わぬ男性に怒り」と題する60歳の男性からの投書が載ったのは数日前のことであった(2010.12.19、朝日新聞)。その内容は要約すると次のような視点から構成されていた。

 @ 男性のかなりの人がトイレで用を足した後手を洗わない。
 A スーパーの客用トイレで見る限り5人に1人は手を洗っていない。
 B こういう人は帰宅しても手を洗わないであろう。
 C 私は手洗いを徹底している。
 D そのおかげで風邪による欠勤はない。
 E 手洗いはインフルエンザを予防する最低限の手段である。
 F 手洗いをしないのは「自分の勝手」ではなく、他人にウイルスを伝染させる恐れのあることを自覚すべきである。


 私は彼が手洗いについてそんな風に考えていることそのものを批判したいのではない。まあ、私特有の「べき論」に対する蕁麻疹が反応を起こしたというだけに過ぎないのかも知れないけれど、新聞と言う公共的な場面で主張するにはどこか独断といささかの偏見が混じった意見になっているのではないかと気になってしまったのである。

 その第一は、彼のトイレに対する不潔の思い込みについてである。トイレはそんなに不潔な場所なのであろうか。確かに一昔前までトイレはいわゆる汲み取り式が殆どで、蝿などの発生源でもあり不衛生な場所であったことは否定できない。だが現代ではそうした不衛生さは水洗に変わることで改良され、昔の面影などどこにも見られなくなっているのではないだろうか。しかも彼が自らの意見の実証として掲げたのはスーパーのトイレである。恐らくその場所は確実に水洗化されているであろうことは信じてもいいのではないかと思う。

 もちろんそこは公共の場だから、誰でも自由に利用できる場所である。見ず知らずの不特定多数の利用が当然に予定されている場所である。だとすればそうした意味において多数人の触れるであろう場所は、それだけ例えば病原菌などにも汚染される可能性が増すことを否定はできないだろう。
 だが、考えても欲しい。その汚染の可能性の増加はあくまで「多人数が利用する」と言う意味と限度においての意味しか有していないということである。つまりその場所がトイレだけに限るものではないということである。

 不特定多数が利用する場所は別にトイレに限るものではない。電車やバスなどの乗り物はもちろんのこと、エレベーターであるとかオフィスの中、スーパーの買い物カゴなど、そうした場所は世の中に山積しているはずである。ではそんな中でなぜトイレなのか。

 トイレだけが特に他の場所と比べて不潔と感じるのか、それにはもしかしたら糞尿に対する無意識の嫌悪感があるのかも知れない。水洗式になっている現状は既に触れたから、汲み取り式に抱いていた歴史的な嫌悪感は情緒的なものとしてこの際現実的な汚染の可能性からは排除してしまおう。
 だとすれば残るは糞尿そのものの汚染性である。糞尿がそんなに細菌にまみれているのかについて私は具体的に検証したことはない。だが、常識的に考えて体内を経由してきた糞尿が人体に有害な物質を生成したり増殖させたりしているとは信じがたいのである。むしろ口や鼻などから取り入れた食料や吸気などに含まれている細菌を浄化する機能こそが人体には組み込まれているのではないかと思うのである。つまりは私には糞尿というのは決して不衛生な排出物ではないと思っているのである。そして私たちが思い込んでいる不衛生感は、糞尿そのものに原因するのではなく、貯蔵であるとか処理がきちんとされていなかった汲み取り式時代の思い込み、そして排泄物に対する不要感、廃棄物としての意識などの心理的なものに過ぎないのではないかと思うのである。

 とすれば、糞尿そのものではなくトイレを利用することによる汚染の拡大の可能性を考えなければならないかも知れない。彼の主張は手を洗うことにあるから、それはまさに自らの手に感染源たる細菌がトイレの利用によって他者に拡散することを意味している。トイレを利用するということは、ドアの取っ手や水洗のためのハンドルであるとか自らの衣服や肌に手を触れることを意味する。取っ手やハンドルはトイレ固有の問題ではないからここでの問題提起からは外そう。残るは自らの衣服や肌が細菌に汚染されておりそれに触れることで拡散するのだということなのかも知れない。だとすればポケットに手を突っ込んだり、目や鼻に触れたり、髪の毛を触ったことでも同様のはずであり、特にトイレに特有な現象をそこに求めなければならない必然は思いつかない。

 さてもう一つは手洗いである。昨年の新型インフルエンザなどから急に手洗いの励行が叫ばれる世の中になってきているが、それを見る限り手洗いが感染拡大に有効であるとされている。だがその手洗いの方法たるやかなりの熱心さが必要である。指の間や手の甲、更には親指や手首まで入念に洗わなければならないらしい。つまり指先をつまみ洗いするようなやり方では手洗いにならないと言われている。テレビなどでは汚染に見立てた色素を手にまぶして、けっこう入念な手洗いをさせ、その後その色素に反応する薬品を吹きかけて手洗いが不十分であるとのご丁寧な報道までしている例があるくらいである。だから「洗うこと」よりも「どう洗うか」の方がより重要になってくるだろう。

 私はトイレ利用後の手洗いを否定しているのではない。ただ、トイレ利用後に手洗いをしないことに対して、「他人にウイルスを伝染させる恐れのあることを自覚すべきである」と批判するのは的外れだと思うのである。糞尿に対する不潔感は、日本人の潔癖性からきているのかもしれないし、そうした不潔感が手を洗うという行為によって感情的にもせよ解消されるであろう心理を理解できないではない。

 手洗いとはまるで関係ないことだけれど、かつて学んだ刑事裁判の判決に「高価な茶器に小便をかけた行為」が器物損壊罪にあたるとした例があった。物質的には何の損壊もないにもかかわらず、心理的に茶器として効用が失われたことに損壊罪の成立を認めたものである。また宇宙飛行士が宇宙旅行に当たり自らの排泄物から再生した水を利用することに少なくとも心理的に引っかかることもまた私たちが自ら思った以上に想像の世界に影響されるであろうことを示しているのかも知れない。
 だが、自らの小水が決して汚いものではないとしてそれで手を洗う習慣のあるという民族の話も聞いたことがあるから嫌悪感はもしかしたら後発的な学習によるのかも知れない。

 だから私が言いたいのは手洗いの習慣を否定したいのではなく、トイレを利用した者が手を洗わないことに対して特別に非難の声を上げるような行為には、どこかでインフルエンザなどの感染拡大に対する道筋との混同が起きているのではないかと思ったのである。つまり、投書者は「手を洗わないこと」に怒りを抱いているのだが、その原因にあるのはトイレに対する一種の不潔感ではないかと思うのである。それはその人がそう感じたのだとすればそれはそれでいいだろう。いかにトイレが清潔だと言ったところで、家族にしろ不特定多数にしろそうした多数が触れる場所に汚染が拡大する要因が潜んでいることを否定するつもりはない。極論を言うなら自らの身体や衣服などにも汚染源は存在しているのだから、トイレにだけそれを転嫁してしまうのは論理の一貫性に欠けるのではないかと感じたのである。

 投書者の主張の背景にはそうした不潔感に対する手洗いの励行の感情が、いつ間にかインフルエンザの流行予防のための手洗いの励行とが、手洗いと言う共通の行動のもとで目的と結果とが混線してしまっていることにある。トイレ使用後の手洗いとインフルエンザ蔓延防止とは何の関係もないからである。もちろんトイレの後に手を洗うことでインフルエンザウイルスが流れ落ちる可能性がないとは言えない。でもそのことと手を洗わないためにインフルエンザの感染が拡大することを直接結びつけ、怒りの矛先を向けるのとはまるで違うと思うのである。

 あんまり気にしすぎると一日中手洗いに固執してしまうまでに不潔恐怖や洗浄強迫などの観念にとり付かれ、強迫神経症として精神科での診断が必要になってしまう。だからその辺のところはいわゆる「ほどほど」にするしかないと思うけれど、せめて「外出したら手を洗いましょう」、「洗う時は流水で指の間や手の甲や手首までしっかり」くらいまでには気をつけたほうがいいようである。そして手洗いの奨励が決してこの投書のタイトルの「手洗わぬ男性に怒り」の背景にあるトイレではないことに投稿者自身も気づく必要があると思うのである。



                                     2010.12.22    佐々木利夫


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トイレと手洗い